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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



組織と個人の関係性を越えるもの ~Facebookをサカナに~

f:id:fotobiginesu:20151011121055j:plainこれ、サンマです。本みりんを10倍に希釈して、焼く前に魚身に塗るといい焼きに仕上がりやすいというんでやってみたけど、なんかイマイチ笑。

 

↓ぼくのFBページ

https://www.facebook.com/fotobiginesu



Facebookは本国アメリカではもうとっくにピークは過ぎてて、どんどん個人のアクセス時間が減ってるってちょっと前に聞いたけれど、最近の傾向はどうなんだろう?


いままでもMySpaceとかLinkedInとか、ローンチ時は華々しく、アメリカ主導型で日本に入ってきて、でも数ヶ月でマイナーになったSNSサービスはあったけど、Facebookもそうしたマイナーソーシャルのワンノブになってしまうのだろうか。
Facebookって現在ぼくのアクセス母体・結節ハブとしてTOPポジションなんだけどね。


しかしいつも思うけどIT系サービスって流れが速いよねー。この速度感って、人の「忘却するスピード」に合ってるのかな、と。


ビジネスでITやハイテク機材(プロカメラマンのカメラとか)を駆使してる人は、一度の初期投資でいつまでも、何回でも稼ぎたいから、変わりたがらない・変えたがらないわけだけど、無料でサービスを享受する側は無責任だからホイホイ「忘れて」乗り換えていく。


この節操の無いミーハーぶり、足軽な自重の移し替えが、人間の、特に仕事を離れた遊び人的良さだと、筆者は実は肯定したい。


<ニッポンのオトナは不器用だしそれでOK宣言>

だいたいが仕事人(というか特定の組織に属する組織人)としての規律・規範と、個人としての蓄積・経験・思想、要するに内実を、同じ人格の中に同居させるのは難しい。ムリに同居させれば嫁と姑みたいに決裂するか、分裂をはらんだままコンチクショウ感情を抱えて暮らしていくことになる。

分裂なんかしない、同居できるはずだなんて考えは、組織側、資本家側、企業側の思い上がりなんじゃないかな、それは。
時間で区切ることがすべてに適用できるみたいな、商品カタログをみれば世界はすべて把握できるみたいな、そんな思い上がり。


規律や規範の方が、組織みたいな特定の小さなものじゃなく、人間の歴史にしかと裏打ちされた一般人としてのマナーのような、わりと大きな枠であれば、それと個性との両立は大アリだと思う。あまり言われないけどヒトの個性って巨大だから、歴史に準ずるものの大きさなどとは、バランスはまぁまだ取れる方だ。


だけど二項立てする一方が小さくて特殊なムラ(例:会社員)であればあるほど、個人の広大な世界との落差がありすぎてその二項のギャップはデカくなる。それが世に言うストレスの元凶なんじゃないかな。

 

普通は組織がでっかくて、個人なんざその歯車にすぎないって考えるけれど、ホントはまるで逆ですからね、社会構造上もマイ組織論的にもマイ経済学上でも。人格はすべてに先立ちますから。仕事上のキャラなんて、その人のホンのホンの一部にすぎないです。


仕事とプライベートの境界線に関して、よくオンとオフのスイッチをうまく切り替えるとか、しっかり働いてしっかり休む(あるいは遊ぶ)だなんて言われるけど、そんなの管理側の戯言であって、どんなエリートだってそんな器用にうまくいくわけ、ないじゃない。


ぼくらシームレスな時間存在だし、機械じゃなく超複雑な生命統括体なんだから。


人々がこういう無慈悲さに無自覚に馴らされていった挙句、組織側で何が生起するかというと、それはひとつにはハラスメント(嫌がらせ)の拡大である。
それは従来のように性差(セクハラ)やモラル(モラハラ)の領域だけで起きるんじゃない。ハラスメントを起こす/起きる対立の構図は社会のそこかしこにあって、そうした対立段差を苗床にして、新種のウィルスのようにいつでも新しいハラスメントの発芽は準備できている。


(例えば同期入社との能力差、タイミング違いでの成績差、人事の不公平さなどなど…いづれも小さなことだが、目をくらまされている当人にとってはとてつもなく巨大な問題)


ひとが組織人と個人とに引き裂かれているうちは、いつだってハラスメントも対立も、ストレスも、不幸の元凶になる。誰もそんなこと望んでないのに。


<そこでフェイスブックの登場だ>

こうした組織人と個人とにまたがる領域の緩和剤というか緩衝地帯として、実名ベースを大きな特徴に掲げるFacebookは、なかなかうまくこのスキマにフィットするものだと思う。FB側の意図は分からないが、アメリカ人の建前としての公私の区切り方が、FBの制度設計によい影響を与えているような気はする(ご存知の通りアメリカ人にも本音と建前は大いにあって、そこにフタをしてるのがあの国の良い点と悪い点とを形成している)


周知のとおりFB利用者はアカウントはもちろん、稼動状況においても、通常は公私を分けてない人が大半というSNSである。
コミュニティページ(旧名ファンページ)などという裏技みたいな制度はあるにはあるが、企業人としての自分とプライベートな自分との区分けに関して、「あなた本当はシームレスな存在のはずでょ?」と、ログインするたびFB側から突き付けられているのがFacebookの本質であって、これはどんな解説書にも載ってない、FB使いこなしの大事な核心である。


そのプライベート部分にしたって、いい大人なら学生時代や就職後の交友関係など、関係性は幾多にも広がっており、一方の仕事関係だって転職歴のある人なんかは特に、同様の拡大は見込めるのである。


こういうふうに自分が交友関係や日々の雑感投稿を素材に立体的に照射され、そしてセキュリティは施せるにせよ、その自分の姿形が全体に可視化され、web白日の下に公開される。

 

ぼくの知り合いの中には、FB上で発信する記事はプライベート関係のみと割り切って、自分の趣味ばかり羅列してる人がいるのだけれど、大きなお世話だが、その涼しいカオした「合理性」がよそよそしい。仕事してる時の自分はかたくなに見ないようにしてるみたいで、なにかムリがある。

 

mixiやtwitterといった匿名を許容するSNSという助走があって、フェイスブックという個人メディアの集積場、個人の時間を使った、全人格での参加ができる「場」が準備された(偶然、登場の順番がそうなっただけだけど)。
FBのような平易に明快で風通しの良い、なんというかPOPなものは、いままで地球上になかった。


今まで日本にあった招待制のMixiとか2ch(これはSNSとはいえないが)やtwitterなどは、匿名性と限定性が保証されてる点で、いわばぬるま湯のなかでのおっかなびっくりコミュニケーションSNSだった(もちろんtwitterは今でも人気だけど)


こうしたものはぼくたち日本人の、受身でシャイな感性に合うけれど、これだと組織、企業の手のひらの中での限定展開しかできない、おままごとコミュニティだったと、今にしては思える。


いやこの文はSNS賞賛ばかりするわけではないけれど、今イチバン自分を出しやすく、即時性もあって広く世間に流布できるセルフメディアがFBであるのは、間違いないだろう。


今後はガス抜きというか、緩衝地帯としてのFacebookでなく、もっと自分に引き寄せた使い方、すなわち自分の仕事を立ち上げる、立ち上げたら今度は拡散するという武器の本丸として、能動的にFBを使っていく方向に有用に、十全にシフトしたいものだ。
facebookなんてイマドキもはや古いインフラに見えるかもしれないがそうじゃない。ぼくも含めてまだまだフェイスブックは使われていない余地がたくさんあると思う。自分というメディアが死ぬまで開拓され尽くせないのと同じように。


現代人が、組織やら会社やら既成のナニガシかのものと、個人のもつ内実との大きな2つに引き裂かれているこの不幸。
これを解消する、いい手助けに、FBという黒船が役立てばいいと思うし、その全体光景は本来のインターネットの水平化・透明化思想にもよくなじむと思う。

 

過去~現代:組織は個人を抑圧するもの。

今後:組織は個人を解放するもの。

最終形態:組織なんかシカトしてても痛くもかゆくもない個人がフツーにあちこちに。

 

これでいいノダ笑

 

(了)