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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



個人のデカい内面は、国家組織だってそのまま入る  ~国会前のデモ光景に寄せる感想文~

www.theguardian.com


<人の世で、顔ほど雄弁なものはない>

Facebookのタイムラインを見ていたら、上のリンク記事に目が留まった。この凛とした迷いのない、屹立を感じさせる風貌の若者を見た瞬間、ハッと胸を衝かれ、日本は別の次元に入りつつあると直感したのだった。

話題のSEALDsのメンバーらしい。ネット傍観集団やホリエモンのようなインフルエンサーによって、この数週間叩かれてきたあの人たちだ。失礼ながらこんなに澄んだ、硬質で美しい顔をしていたとは驚きだ。

フォトグラファーが外国人だから、こんな特別な写真が撮れたのか。そうではないだろう。

デモの現地から届いたこんな証言がある。2015年9月16日、22時くらいのFB投稿で、投稿主は西脇秀典という、僕が全幅の信頼を置く、長年の友人だ(この人の感性と思想というのは、僕から見れば長年にわたり驚嘆すべきレベルで屹立している)

 「(国会前に集まる人々は)群集と言う感じが全くしないのです。
圧倒的に一人、一人。対峙する警官も、一人一人の表情、佇まいが全く違う。」

 



僕はテレビでデモを観ただけだが、あの国会前のデモは、確かに昔の大島渚の映画で観たような、60年安保闘争の群集とは違っていた。雨だったのもあるが、うねるようなエネルギーは、まったく感じられない。こう書くとケナしているように聞こえるが、そうではなくて、クールな中にふつふつとしたエナジーを感じる分だけ、進歩してるのだと思う。おとなしいからといって飼い慣らされてるわけでなく、むしろ逆の圧力を感じさせる。
そして警官まで個人として屹立してるように観察されただなんて、これはただごとではない。今までのデモ光景とは何かが違う。

 

(しかしさすがに18日の夜、つまり成立前夜は、抗議もかなりヒートアップしていたみたいだった)

2011年夏、反原発のときもそうだったが、国会前に集まったひとびとは、どうももはやシングルイシューのみの決起総会ではないように見受けられる。あれは一人ひとりが能動態であり、直接民主制をもはや要求していると解釈すべきである。ひとりひとりの顔を見れば目を見れば、そう知れる。それがいままでの「何かと対立すること」だけが命題だったデモと、違う点だろう。

代表民主制、政党政治、何らかのオーソリティや専門家に政をゆだねること。
そうしたものの大雑把すぎさ、形骸さ、蒙昧ぶりは、もう40年ほど前から明らかである。

社蓄やブラック企業などに代表される、人を人と思わぬ昨今の社会傾向、そしてそれが半ば常識化した本格的な軽薄時代の到来にあっては、政治においてもその傾向にますますもって加担し、武藤某などのような議員のレベル低下など、もはや政界ショーは脱力、冷笑、ネタの宝庫とすら化している。

雨の降る中、静かに立ちすくむデモに参加した人々のたたずまいは、議事堂内の背広や制服を着た能面鬼面たちと、あざやかな対照を成していた。



<安保関連法案群について>

ちなみに今回の安保関連法案群について僕の考えを述べておくと、反対である。
また、その法案の生起過程(アメリカ追随)も、ごまかし文句にあふれた法案そのものも(言い訳のせいで法案名からして長い)、一方的な成立過程も(この法案を今期国会の一大争点にしろだなんて誰も言ってない。もっと重要かもしれない諸問題を丸ごと覆い隠すような、コレ自体が愚挙)、全部丸ごと駄目だ。

しかし一方で、この法案可決によって戦争状態に即なるわけではないとも、思ってる。

なぜか?

■周辺国が日本に対し戦争を起こす大きな理由がない。何しろジャパンは世界に名だたるヘタレ国家であるのだからして、日本相手に勝ったら、そのあとどういうメリットが得られるのかという絵が描きづらい。要は、勝っても奪うに値するものがない。


■理由も前兆もなく日本に殴りこんできそうな国がひとつあるが、兵器の性能が怪しいらしいのと、その国では日本への戦争のけしかけは自国にとっても自爆行為であることが自覚できていて、かつ、背後に糸を引く存在があって自分はその傀儡であることも自覚できてるらしい点。


■世界中でもう「戦争の世紀」は過ぎたため。正面きった正統派の(?)、全面総力戦としての「戦争」は、オールドスタイルに後退し、実際には行使できない核兵器は、維持管理に税金を食うだけ。武力はいまや卑怯でコスパのよいテロを志向するようになって久しい。また、経済や銭金が新しい暴力装置になったのも、これまた久しいため。

 

■代理戦争、代理紛争、テロの背後で糸を引く謀略こそが「戦争」の本体であるため。


■海を渡って武装を持ち出す「意志の強さ」は、災害救助のためを除いてこの国にはない。それはこの国ではリスクとコストしか考えられない、金銭の枠を踏み越えない狭溢思考が根っこにあるからであり、このへタレ加減さだけは十分に信じられる点。


■戦争(交戦)をするような装備には、自衛隊は基本的にはしてない(らしい)。迎撃なら出来る。例えるなら「図書館戦争」という映画・小説における「図書隊」である。

というような理由が思いつくからである。

 

<求められるのは、世界人民同時保護法みたいな方向性じゃないか>

いまの世界はもう、国家の枠組みや従来からその地に居座る組織(宗教含む)が暴力なのであり、それら対、人民という構図であることは、いろんなところで指摘されている。
戦争をテロという形で仕掛けてくるのは、隣の国ではなく、隣の権力機構だ。

 

(だから暴力防止の観点から対処療法的に厳格化が必要なのは「テロ対策関連法案」的な方だろう)

あのシリア難民を、天津の巨大爆発での隠蔽を、フクイチの災害でいまだ強制避難させられたままの人々を、世界中の人々を襲う悪夢の数々を見よ。
テロにしても紛争・戦争・人災にしても、虐げられ、逃げ場もなく悲惨な目に合わされるのは、いつも市井の人なのだ。

 

代わりに積極的に推進したいのは対話行為であり、援助行為である。僕たちが語りかける相手は、中国に、北朝鮮に、シリアに、たまたま生まれてたまたま住んでる今を生きる人々であり、それは僕らとなんら変わりはない普通の人たちなのだ。


そしてそういう仮想敵国(言っちゃった)に住む普通の人たちや、いわゆる「難民」(難民は本来は失礼な言葉だ)に、いざ有事の際は日本がどういう角度で向き合うのか、国としてのコンセプトが問われているのはそこだと思う。
それが憲法に明記されていて、その思想の先に、各種法案が実務部門的に追随していくと、こういう順序でないといけない。

だから今後行われるであろう海外派兵も、ドンパチやりに行くんじゃなくて今までもそうだったように現地の人々のレスキュー隊として、日本の部隊は現地の尊敬を得てほしい。これからも、いつまでも。


国内の災害救助で得た、困難な中で救助するというノウハウが、紛争被害での救出や、救援活動にも役に立ってほしいと切に思う。


その意味では小さい戦争を小出しに実行し、戦争のノウハウを失わずに積み上げてるアメリカと同じだが、税金も自衛隊員の貴重な人命も、敵を殲滅する方向じゃなくて、人民を救う方向に全力で振り向けてほしい。

 

<デモにせざるを得ない時点で「負け」>

 

この一連の安保採決の動きにあっては、「デモをすべきは国会前ではなく、中国大使館前で」という意見があるが、デモというプロテスト手段は、いづれにせよ僕らはできればとりたくないのだ。それは問題を追認するだけの不毛さがあって、徒労で消耗的で、おまけに敗北的で消極的であるからだ。


だから僕は強行採決も、だいたいいつものパターンでキメてしまうだろうなということで、はっきり言うと諦めてるし、牛歩戦術の現代版とか、セクハラまがいの行為まで持ち込んで繰り広げられる議事堂内のドタバタは、まぁいままで何度がっかりさせられてきたんだろうという、いつもの茶番である。


どうせ政界上層部の裏を覗いてみれば、与野党間で何らかの譲歩と妥協と駆け引きがある八百長である。やらせの跋扈するTV界などと同じ構造だ。


また、週末からシルバーウィーク突入だとか、延長した今期国会の期末が控えているとか、一見公平そうな時間で区切って焦らせるのも、受験だとかと同じ見せかけのフェアネスって気がする。


そういう醒めた目でみんな見てるから、国会議事堂前の人々は、警官ですら冷ややかに孤立しているのではないか。

野党の議員たちには、とりあえずああやってやらせておけ。
彼らは、あれが自分の仕事だと思ってるのだ。
かわいそうになぁ、いくら踏ん張って牛歩しても与党同様、国民からの「がんばってるね」支持は得られまい。
超高給取りなんだから、おうちに帰ったらお金で自分を慰めてるといいだろう。法案が成立しても、おかねがあれば枕高くしてぐっすり寝られると思うよ。

 

<やはり、議員のセンセーたちとは顔が違う>

さて話を戻して、デモの若者たち(の顔)について。

 

この国の可能性は、国会前の群集(とみなされてる集団)の方に、果たして、ある。


ひとりひとりの圧倒的な、変な根っこの切れた粒立った顔。怒号も立てず、しずしずとしたアピール。

 

(だがくどいようだがさすがに18日の夜、つまり成立前夜は、かなり殺気立っていたとテレビで観た)


対象に直情的に向かわない、相対化の洗礼を何度も受けて到達した冷徹な視線。そして現場には向かうという行動力。
先に成立してしてしまった、こちらの方も安保法案に負けず劣らずキナ臭い「特定秘密保護法」に対するデモのときも、こんな感じだった。

体制と別の体制との武力対立の可能性に主軸があるうちは、道は見えない。それは一般化の枠に閉じ込められた「対岸の火事」だからだ。
その道を、他国の同時代人たちとの対話によって切り開くのは、もしかしてあの醒めて屹立した個々の若者たちなのかもしれない。いや、そうでないはずはない。
あの、浮わついたところの感じられないしゃきっとした瞳、具体性そのものの生身の肉体と静かな意志を感じさせるフォトを観ると、そう思える。

そんなことをボーっとしか考えられない僕の目は、まだ覚醒にはほど遠そうだ。

 

<了>