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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



万華鏡からの脱出勧告。

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万華鏡~昭和レトロ倶楽部サイト~より引用

http://retro-club.com/index.htm

 


<現代人は万華鏡のイチ要素である>

突然だが僕は万華鏡が好きだ。

小さなのぞき穴から見ると、万華鏡の中はまるで宇宙のような拡がりがある。
ほんの1cmまわすだけで変幻自在の、魅惑の、予測不可能なパラレルワールドが渦巻いている。
実に楽しく、飽きもせず熱心に見入る。穴から覗きさえすれば、その小さな宇宙にいともたやすくアクセスできる。
あなたも僕もその中にいつまでも浸っていたい、いつまでもそれに幻惑されていたい、と思う。
万華鏡の博物館があるが、そこに行くと僕なんか単純だから「世界はこんなに楽しいのか」と、何時間でもうきうきしてしまう。

 

しかし、いったん万華鏡の覗き穴から目を離し、一個の客体として万華鏡を外から眺めやれば、それはひとつの小さな筒に過ぎず、それ自体はおもしろくも新鮮でも、なんでもない。

 

さらにイタズラっ気を起こして万華鏡本体を破壊分解してみたとしよう。


すると何とそれは、小さな少数の部品で構成された、単なるおもちゃの筒に過ぎないのだった。

いくつかの小さな鏡、吹けば飛ぶような小さなビーズや細片がほんのわずか。それだけ。

あんなにキラキラきれいな、小宇宙そのものにも見えたカレイドスコープ・ワールドが実は、ホウキの一掃きで片付けられてしまうようなちっぽけな、ほんの小さなサークルだったなんて!

 

ボーゼン自失、棒でも飲み込んだように目を白黒させながら、僕は立ちすくむのだった(大げさ)

 


<囚われの感覚>

あのあわれな小さな細片みたいなものは、ズバリ僕たち現代人の姿である。そして細片以外の構成要素(筒や鏡)が、既成の社会や規範である。
単なる細片はライトアップされ、外部からくるくると運動を加えられ(廻され)、周囲のミラーによって実物以上に増幅され拡大されて、きわめて小さな空間の中だけで踊り舞う。
覗かれるという外側からの視線によってだけ、主人公になったように光り輝く存在となるが、それ以外のときは単なるチリ芥であり、世に存在しないに等しい。

 

万華鏡の外側にも世界は広がっていることを感取できる想像力がなければ、

 

そして万華鏡を突き破る発想にまで至らなければ、

 

僕たちは「問題なく」キレイさを演出する一要素となって、くたばるまで筒の中から出られない。いや、くたばったって屍骸となって輪姦され続けるかもしれない。

 

また他方では、筒の中にとどまり他の細片と適当にじゃれあい、覗かれたときだけ光り輝く人生は、実に楽チンで孤独も感じず、心地よいといえる。
助手席に座っていれば、自動的に目的地に到着できるようなものだ。

 


<ぼっちの復権>

だがほんとうはその細片には、一つ一つに意思があり、万華鏡の外の世界と同等の広がりを、その内面に有している。
"筒"という容れものや、鏡のようなゴマカシは不要どころか、細片(ヒト)を内向きに小さく封じ込める効果しか生まない。

 

筒の中に居たままだって自分が拡がる可能性は、なくはないのだ。
それは細片同士がふれあい、擦れ合い、そんな瞬間瞬間に細片同士が「つながる」こと。それは筒の中に居ながらにして、自分の立ち位置を自覚する知力があればできるのである。


そうやってつながってる時は、細片どうしが互いに離反する瞬間ですら「つながり」は残っている。また、連帯を分かち合ったまま離れていられるし、再度くっつき合えるかもしれない。例:ホントの労働組合、うそでない政党政治、仮面でない結婚制度

 

しかし、それには知性の自覚が必要なので、ハッキリ言ってレアケースである。

 

通常は細片自身が、自分をチリのような矮小なものと自動的に卑下しているし、させられてもいる。
ゆえに自分の巨きさに気づいてもいない。
そうした限定の枠内にいる限り、隣の細片もやはり矮小なチリにしか思えず、ウザくてキモい存在なだけである。
これがヒトの世の真実であり、世知辛いとか、生きづらいとか、矛盾してるとかは、ぜんぶ「筒の中」での話である。

 

最初は誰もが小さな片だ。筒の中で他の片と、長年押しくらまんじゅうしてるうちに角が取れ、丸みを帯びてやがて収まってしまう。
そこから飛び出して独立するには痛みも怖さも伴う。しかし、外の世界には明るい、まがいものでない光景が広がっていて、ほんとうに深呼吸できる空間がある。

飛び出し方も、その角度も按配もタイミングも、人それぞれだし、最初のうちは片足だけ筒の外に出してみるのもいいだろう。ただし筒にまた戻るのは、考えない。あくまで、外へ、外へ。

 

心配はいらない。人の本来的な活動という、より上位の視点からすると、筒の中は限定的刹那的な社会姿勢の強制であって後天的なものだ。
ヒトの生来の本筋は、独立、孤高と引き換えにした筒の外に、やはりあるのであって、利も分もわれわれ個人の方に最初から準備されている。

 

飛び出すのはそんなに難しくない。やりたいと長年思ってきたけど、やれてこないままズルズルときてしまったものをやるだけ。そういうものは大人ならみんな何かかんかあると思うが、それをするだけで、さしあたってはよいと思う。

 

そうやって筒の外にいったん出てみれば、今まで世界そのものだったはずのその筒は、実はあわれなまでに小さかったことだって、しっかり分かってしまうだろう。これは僕の実感でもある。

 


<さらに続くパラレルワールドの構図>

 

また、その「万華鏡を覗く」という、簡単に手に入るエンターテインメントに慣らされている構図も、倒錯の原風景だと認識せねばならない。

テレビ、CM、新興宗教、ゲーム、スマホ、ネットのゴミ記事等々…

そのとき覗く対象は、他人の不幸とか感動話などといった、他の「チリ」の活動状況である。
その中では、自分もまた消費される断片として、しっかり他からウォッチされている。筒外のどこかで。


「万華鏡」を覗きながら何時間も面白がっている大人は、外から見ればミスター・ビーンのようにこっけいである。没頭する対象が違うからである。

 

これら全部ひっくるめて、「囚われ人」という名で総括できよう。

 

万華鏡はその物自体も、それを与えられて喜んでる姿も含め、僕たち自身を照射する。"筒"を超克し、弱くても、寒くても、ゲリラになっても部分的にでも、自分の足で立ってみる。

 

それは誰にでもできる。落伍者なんていない。

 

そう、本当のお楽しみは、これからなんだ。

 

*注)なお、万華鏡自体に罪はありませんwww

 

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