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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



日本のビジュアルの表面的キレイキレイさ…その陰で空回りしてるもの・踏みつけになってるもの

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おにぎりを食べよう(本文とは関係ありません)

 

<日本のビジュアルの表面的キレイキレイさ>


昔からどうも違和感があるのが日本のあらゆるところを覆っている無菌な清潔さ。
キレイすぎてどうもなじまないのだ。自分がズボラだってのもあるんだけど笑。

 

例えば音楽。プラスチックの表面みたいなピカピカのジャケットデザインにはじまり、中身はコンプやらイコライジングやらソフトウェアの処理で磨き整えられた音。
ロックであってもフュージョンみたいな音の手触りで、スタジオの空気、温度湿度まで執拗に制御されてるみたい。
コンセプトがびしっとキマったバンドメンバーのヴィジュアル・フォトグラフのかっこつけ。
ライブとなれば、これは観客側の話だけど昔からお約束の右腕振り上げノリ(さすがに画一的すぎて今はそんなノリは減ってるだろうと思いきや、こないだのセカオワライブではみんなやってた)、アニメ系声優系イベントライブだとサイリュウムの闇雲な振り回し。
人工的なきれいさの演出にみんなわき目もふらず一所懸命参加して、自分の踊りを踊る人は少数派で、あれでみんな楽しいんだろうかと、余計なことを思ってしまう。だってあれじゃニュルンベルクのナチス党大会みたいなんだもの。

 

例えば映画。ポスターに描かれたツルツルに磨き上げられた主演女優の肌にはじまり、黒々しさのないペンキみたいなまっ赤な血。いかにもセットでございという部屋。

現代劇だとタイアップ企業のビジネスが背後にモロに想像できる、白々しい商品露出。「ナントカ製作委員会」の重々しいクレジットに隠れた、大人社会のわざとらしい言い訳。


かなり評価の高い園子温監督の近作2作(「新宿スワン」「リアル鬼ごっこ」)も、そんなキレイキレイさでまとめ上げられた感じがしちゃって。
リアルさを出そうとして演出した俳優のヨゴレ姿さえ、ある意味スタイリッシュで、泥ヨゴレひとつ、ボサボサのヘアスタイルの毛束ひとつに至るまで、位置、サイズ等、綿密に計算され配置されている。その計算が、こちらにも見た瞬時に伝わってしまうむなしさ。
CG作れば細部にこだわるあまり全体的な絵はいまだに画面から浮いてるし。
国産SFもので違和感なく鑑賞できたのは、最近だと押井守監督の実写版パトレイバーくらい。

 

例えば女優の髪。時代劇の町娘もさらさらヘアー、戦争映画に出てくる一般女性役もさらさらヘアー。
ヘアケア製品など皆無の時代に、枝毛ひとつなく、天使の輪が頭に載ってるというこの違和に、答えてくれるのは何もない。
若い役者の老けメイクも表面だけ。篤姫の宮崎あおいの晩年メイクは、頭髪に白いものを混ぜ、目尻を少し加工しただけだった。
女性の年齢が一番表出する(男もだけど)首筋、手の甲はいっこうにギスギスさが細工されておらず、スタッフの人間観察の浅さが偲ばれた。

 

例えばコマーシャルフォト。無菌状態のなかで撮影されたかのような完璧なスタイルの白人女性。
その後、それだけに飽き足らず、フォトショップ等での補正の嵐。
出来上がったものは、完璧なるアンドロイド(スマホじゃないほう)。アートディレクションという名の対象漂白計画。

 

(話はズレるけど、白人といえば映画やドラマでも、日本人に混じって白人が出てくると、一気にお客サマみたいな別物演出が際立つことがままあるよね。
昔はアニメを観てると、例えば同じ色のドアが画面に並んでいる光景で、でもこれから開くドアは必ず色が明らかに違ってるってことがよくあったけど、なんか外人の扱いも同じような感じがする。
今はそれでも大分マシになったけど、古くは東宝怪獣映画の常連「ニック・アダムス」(古!)から、今は各種プロモVの添え物的ガイジンまで、マネキンとかオブジェみたいな扱いで、扱い切れないヨソ者って感じ。
それに対する反動みたいなのが芸能界では時々あって、親しみを感じられる白人が出るとワッと寄ってしまう。
それがデーブ・スペクターとか、TBSの番組からよく出てくる小粒なスター外人とか、「マッサン」のシャーロット・ケイト・フォックスなんかじゃないかなって気がする。)

 

日本じゃツルツルでスベスベでべたーっと明るさ一辺倒で、一分のスキもなくナマナマしさを排除する方向にのみ懸命で、血も通わせずに始めっから「完成形」ってのが主流。アメリカのソフト・ハードは概してそうじゃないけど(後述)、唯一の例外はアップル製品。iPhoneの人気は全世界で日本がダントツらしいけど、あの漂白感ならそれもわかる気がする。
日本の製品は、手をかけ時間も費用もかければかけるほど生気をうしない、冷たさがクローズアップされていくというパラドックスに包まれている(と感じる)。

オーバープロデュースなものは町に溢れてるけれど、生身で、ライブでハッとさせるような人やモノは、ほんに少数だ。

 

「美は乱調にあり」は、もはや死語か。韓国の文化も同じように感じる。

 

ところが例えばアメリカやヨーロッパの映画、音楽にはそうしたいわば作為的なところがほとんど感じられないのだ。
70年代のスターウォーズの頃から、SFでもなんでもヨゴレ描写にはリアリティがあったし、現代映画も、いかにも普通の人が等身大に暮らす描写ばかりで、日本的な綺麗さは、スクリーンの中に見つけることすら困難だ。

 

特にCG合成はすごくて、もうハリウッドの独壇場だ。ちょっと脱線になるが整合性を第一に考えられた画面全体へのなじみ具合はパーフェクトで、見てても片時も違和感を覚えず、映画鑑賞のジャマをしない。この前見た「ジュラシック・ワールド」も、「ターミネーター:新起動/ジェニシス」も、CGが完璧すぎてマジックだった。特に後者は現在のシュワルツェネッガーの顔をトレースしてCGで若く仕立て上げ、別人マッチョマンの体に合成しており、数分のシーンながらベトついたような皮膚感も含め、作り物感のまったくない場面をクリエイトしていた。

 

↓同作におけるハイレベルなCGメイキングがまとめられたリンク。

d.hatena.ne.jp

 

リアルな人間をソースにここまでCGでできるんなら、もう役者(人間)の出番はなく、優秀なCG技術者だけで映画ができるかもしれないとすら思えるほどだ。それも恋愛、ミステリーなんでもござれだ。脱線おしまい。

 

欧米の映画の話に戻ると、ロケでも飾らず、撮りっぱなし(にしか見えない)の画。ささいなことは気にせず、要素外の多少の映り込みや破綻は大して気にも留めず進行する。

 

音楽も採りっぱなしの音(に聞こえる)。後加工の形跡もほとんど聞き取れず、実にそっけなく、ぶっきらぼうなまでにあっけらかんとして、素材のまま放り出されてる感じがする。そっけないけど、例えばフォトグラフやポートレイトの数々には生身の迫力があふれていて、ハッとさせられる。

 

日本だと表現の世界だけでなくリアルでも、街行く人のファッションは完成されてるし、行き交うクルマもピッカピカ(アメリカ人男性談)。
特に日本女性のメイクの完璧さは、海外でも驚愕のマトだという。韓国も整形天国だと聞くし、容姿のコンプレックスと裏腹(なのか?)の、外見体裁取りつくろい能力にかけては、日本は世界の最先端をいってる。

 

何でも舶来モノがいいわけじゃないけれど、どうして欧米と日本はこうも違うのだろうか。


(白人は最初から寒々しい肌色をした存在だから、それ以上よそよそしくする加工が必要ないからなのかな…)

 

<破綻を不必要なまでに隠して、ささくれ立ったところを細かく取り除いて…その先は>

 

欧米の実態はよく分らないが、日本の場合何かやろうとするとき、僕たちは何でもかんでも対象に持込みすぎ、盛りすぎなんじゃないだろうか。
これはこのへんでやめておくか、っていう適当さとか、自分で引き際を判断して身を翻す、っていうのがあまりなくて、とことんまでやってしまう。


こう書くと一見サービス精神が旺盛なようで、仕事熱心なようで結構な感じがするが、本当はいわゆる器用貧乏の典型なのではないかと、しばしば思う。

 

電車のアナウンスのこれでもか感、いったん決められたスケジュールや事業は、本末を転倒させててでも完遂させるその忠実性。「…した」ではなく「…させて頂きます」といった慇懃だがくどい話法。

 

これらは相手を気遣って自然ににじみ出た丁寧な言動というよりは、マニュアルに沿った思考停止から生まれる、自己満足寄りの挙動っていうのが近い気がする。そしてその思考停止とは、何かの態度の保留であり、何かから距離を置いていたいという心理じゃないだろうか。何に対する保留であり、距離であるか?それは自己そのものに対するそれではないかと思う。

 

もう少し言うと、目の前に与えられた課題にとりあえず集中していれば、自分と直対応することは当面避けられる、自分に向き合わないままなるべく済ませていられる。自分に向き合わなければその先にあるシリアスな命題、たとえばいかに全く生きるかといった根源的な問いから身をかわせる(気がする)ということだ。

 

僕もそうだが、やっぱり生きることに、自分を問い詰めることに対して、いつもどこかに不安があって、その不安をどうしても塗りつぶしてしまいたい気持ちが、糊塗によるきれいさ、完璧さに向かわせているのだと思う。


自分にとっていかに生きるか以上のテーマなんてないにも関わらず、塗りつぶして、見て見ないフリして、なかったことにして、冷蔵庫の奥にしまいこんでしまうのだ。忘れてしまって腐ってしまうその日まで。

 

だから日本の完璧主義は、上に重ねる方式で積み上げられ、その反復で落着されていく。あるいは、表面上の体裁(きれいさ)を追い求める形で結実する。そりゃあ少しは引き算もするけれど、全体としては足し算の理論だ。


僕の本業の画像加工も、デジタルでレイヤーを重ねていくのが基本だし、ノイズや欠点の除去もするけれどそれは省く方ではなく、塗りつぶしや別素材という名のレイヤーをかぶせて「見えなくする」方法が主流だ。

 

<言い訳でない仕事への志向>

 

ところがやはりそれはゴマカシなのだ。いつまでキレイさを足し算しても、どうもまだ足りない気がするのもそのせいだし、働き方で言うと長時間労働が問題になるのもそのせいだ。働く時間が長いのは表面的な現象で、本当は「自分」から逃げてる時間が長すぎなのだ。


仕事が雑だから人生が即、充実するわけじゃないけれど、今必要なのは対象をありのままで放っておいたり、削いでいったり、引いていったり、積み上げていても途中であえてやめておくことなどで、仕事の本質に迫る道だ。そういう、日本ではあまりなさそうな、意識もされてなさそうな仕事に対する方法論を確立することと、そのことによって自分への向き合い方への関わりを濃くすることが、いま求められてるのだと思う。

 

昔はそういうのがあった。いわゆる職人芸に属する分野に。

 

例えば木彫りの仏像なんかは、素材の木からノミでバッサバッサ豪快に削っていって作ったらしいが、その過程は、まるで木に元から隠れていた仏があって、その出現を人は手伝ってるだけって感じだったと聞く(表現行為はぜんぶそういう憑依的なものなんじゃないかな)。
そうして出来た木彫りの仏像は、現代プロダクトの基準からするとまさに荒削りで、ディテールや商品管理の観点からするとダメ出しの嵐なんだろうけれど、確かにものとして存在感と温かみが感じられる、じつにいい味わいがあるのである。


昔の黒澤明の白黒映画なんてのも、セットなんかでも作為性があまりなくて、非常にヴァイタルな躍動感に満ちている。映画鑑賞よりもスクリーンに写し出された人生観測へ、共に添っていく感じがしたし今でも観るとそう思う。


そうした仕事が充実していた時代は、人の人生に十全な、明朗な、快活さが横溢していたのではないかと推測する。

 

チマチマと、見えないプレッシャーを感じながら、何かから怒られるかもしれないとビクビクしながら言い訳のように仕事するのは、僕らの本意ではない。
おおざっぱでいいから自分と向き合い、爽快で実直、最短距離でズバッと切り込むような、明快な仕事を目指したい。

 

こうやってそ僕たちは身をかわすことができる。

目に見えない不安から

漠然とした強迫観念から

真綿で首を絞められていくように取り込まれていくことから

誰もがそれを意識しない、無思索という闇から

自動的に隷属状態に繋がれてしまうことから。

 

距離を置く、見なかったことにするのは、むしろそっち方面だ。

 

<了>

 

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