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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



キミもゴミ屋敷のオーナーになれる。

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お昼ごはんにサンドイッチ。ウマイ(本文とは関係ありません)

 


<ゴミ屋敷住人の怖い顔>

 

昔アパートに住んでたとき、ゴミハウスならぬゴミルームがあって、迷惑した記憶がある。

そいつは1階に住んでる奴(おじさん)だったが、ただゴミを部屋に溜め込んでるだけでなく、夜中に奇声を発するわ、上の階の住人がうるさいと突っつき棒みたいなので天井を突き上げて警告するわで、たいへん人騒がせな属性の奴だった。

 

大家も不動産屋も周囲の住人も、みんなで注意したが、そいつにギョロリと睨まれるばかりで生活態度の方はまったく改めようとはしなかった。
聞けばもう15年も住んでる奴だという。その間家賃の滞納はなかったのだそうだ。

 

結局自分の方が先に転居したので、その後は分からないが、あれはダークな体験だった。
ゴミ屋敷の話題がニュースになるたびに、あの狂犬のような目をしたオジサンの、無精ひげを生やした顔を思い出す。被害者意識にさいなまれた自己憐憫が高じて、復讐までいかなくとも怨念化してるようで不気味だった。仕事は何をしてた奴だったんだろうか。

 


<隣人は、選べない>

 

ゴミ屋敷のあるじたち。それは瓦礫の山を築いて、誰からも干渉されず、お山の大将となる存在。外部から注意を受けると猛烈に抵抗するこどもの論理。

家主は例外なくよどんだ目か、ほかを寄せ付けない頑固な風貌をしてて最初から威嚇腰だ。

 

寄せ付けないわりに、テレビ局の取材や"名所やじ馬”には応じ、話して1時間もすると胸襟を開いてくる面もあるみたいで、近所の人が苦虫を噛み潰したような目で見ている。確かにゴミに加えてご丁寧に”集客"までしてくれるとは、周りにとってはいい迷惑だろう。
不衛生だし気持ち悪いしで、こちら側から絶縁状を叩きつけたくなる存在である。

 

異常な数の猫を飼うネコ屋敷や、騒音ハウスなんかも同じようなものか。

 

この陰湿さと排他性、醜悪さの裏に垣間見える痛々しさ。心理学や精神分析などの各種学問は、こうした人心の傾向はとっくに把握しており、原因と対策みたいのなのもあるんだと思う。

 

孤独、他者のクレームをまったく寄せ付けないほどに肥大した自己肯定、現状追認。
堕落の極みにしか見えないあの生活環境及び生活態度。及び開き直り。
病気のレッテルを貼って行政にでも頼んで一件落着してしまいたくなるが、そうもいかない。

 


<堕落の進行が早いのは、僕らに共通する病理>

 

ただここで思うのだ。彼らに対して実は僕は、合わせ鏡で見るように自分への相似を感じる。

 

子供の頃、ロボットアニメに出てくるコクピットみたいなものに想像で座り、何かを操縦するつもりになって遊んでいたことがある。

 

潜水艦の操縦席みたいなそんな狭苦しい、想像上の圧迫空間は、実際に座ると閉所恐怖症になりそうなものだが、子供だったのでその反対に、メカに囲まれて何だか妙に心地よいような気がしたのだ。
今から思うとそれは、自分が強くなったような錯覚だったんだと思う。


ゴミ屋敷におけるゴミも、その擬似空間の構成要因じゃないかと思ってる。あのゴミの山は当人にとっては、外界と自分の居場所との結界線、防壁なのじゃないか。

 

ゴミは自分に向かって反抗しない。当人にとっては日々大量のゴミに囲まれてもストレスにはならない。臭かろうが不衛生だろうが、ゴミは自分に努力を強いない、安住のシンボルなのではないだろうか。

 

その対象がなぜゴミなのかは、確かに不可解だが、本人はゴミのつもりはないのだろうし、元々モノが捨てられない人なのかもしれない。いづれにせよゴミへの思いは変に信念化してるので、捨てろといわれると意固地に執着する。


しかしその一方で周囲の迷惑になってることも自覚している。


だからこそ撤去指示や苦情の指摘を受けると猛烈に反発する。

 

「いわれなくとも分かっとる」「片付けようとしていたんだ」挙句の果てには「おまえに口出しする権利などない」などとやってしまう。

 

そうした口げんかのあとは本人も悶々とし、鬱々とし、やがて外部の指摘を受けてないときでも、常にコンチクショウと思ってるのがデフォルトとなり、責めを転嫁する。

 

その子供じみたむしゃくしゃした気持ちをごまかす、和らげるために、決して自分に刃向かわないゴミちゃんたちに、再度向かっていってしまう。
風呂もトイレも食事も、次第に不便になってくるが、環境(ゴミ)に生活の方を合わせてしまって「そのうち片付けるから今はこれでいいんだ」と現況肯定、現状追認は強化される一方。


廃棄物の壁に囲まれるとふたたび安心し、その城壁内でのみ通用する「裸の王様」となり、他者の迷惑や存在を顧みる視点は、どんどん失われていく。

 

すでにそのころにはゴミ集めは日常の当為となり、集めても集めても、いや集めれば集めるほど、本人の中での他者の欠落、空白、孤立感といったダークサイドの勢力は、増すばかりなのではないだろうか。

 


<シン・レッド・ラインは続くよどこまでも>

 

内発的な心の闇みたいなものを発展的に解消できるのは、当然ながらその当人の心だけであって、外部のもの、それも物質なんかではどうすることもできない。


ましてやゴミはどこまでいってもゴミであってなおさら役に立たず、コンビニ弁当の空き容器などをいくら集めても、何も語りかけてはくれない。当たり前のことだ。

 

だがふと、実は僕もあなたも、ゴミハウスの住人と似たようなものかもしれないとも思うのだ。

 

物体(ゴミ)に依存して、自分の心の空洞を埋める(というか、ふたをする)ような行為は、僕たち現代人の場合日常ですでにたくさんやってしまっている。
僕のようにスニーカーを収集したり、スマホを片時も手放さずいじってゲームしたり、SNS依存のループにハマってしまったり、ネトウヨになって他国を排斥する段になると目を輝かせ口角泡を飛ばして聞きかじりの話を力説したりする(これは僕ではないが)。これらのこととゴミ屋敷は、本質的に差はないのではないか。それは自我の成長の放棄、自己の変化に対する意図的なある種の盲目化である。

 

先鋭化すべき、開放すべき、脱皮すべき自我は、たとえゆっくりとでも、じれったくても、一生かかってでも、自分の力で成長して何とか成し遂げるものであって、既存の何かは、その一助くらいにはなるかもしれないが、それで全部代償したり、ごまかしたりをすべきではない。


いやむしろ既存の何か、例えばテレビなどへの依存は、思考停止を助長し、服従心をあおり、他者への想像力を薄めてしまう。
しかもその効果たるや絶大、圧倒的かつ瞬時だ。自力でやる方は緩慢な作用しかしないのに。

 

モノとしてのごみの替わりに、別のごみを心に持ち込んで、そこから脱しないでいると、ちょうど歯垢を落とさずにいると歯石となり、歯ブラシが届かなくなるように固着化する。それが引きこもりや自分勝手な犯罪の横行、危険ドラッグやSNSアカウントのなりすましやのっとり愉快犯、ストーカー等々の現象になるのではないか。そしてそれらに見られる短絡さや、他の事物への無批判追従の成れの果ては何か。


その延長線上には、国家と東電が莫大な費用を投じて作ったパンドラの箱、兼・現・超ビッグサイズゴミ屋敷、フクイチの瓦礫が、シンボリックにそびえているに違いない。

 


子供のころはロボットの操縦ごっこで自分が強くなったような錯覚をした僕。
ロボットの強さと、自分を重ね合わせて同一視していたその顔は、あのゴミルームのアパート住人と同じ、血走った目をしていたのではないか。

 

つまり僕はこの先、ゴミ屋敷の当事者にならないとも限らない資質を秘めているのである。そしてそれは、自己においての緩慢な自死であろう。

 

そうならないように、気をつけよう。戒めとして記す。

 


<了>