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【書評】「日本軍と日本兵 米軍報告書は語る」 一ノ瀬俊也(著)

 

<彼我の差は大きいのか、小さいのか>

日本近現代史の研究家が考察する、太平洋戦争時の帝国陸軍の真の姿。米軍と陸戦で対峙した、東南アジアにおける諸戦線の実態に迫り、日本軍の失敗の本質、日本軍なりの「合理的」戦闘に迫った力作。


一般的な旧日本軍へのイメージ。それは教条主義、精神主義に拘泥し、陰湿で不条理で硬直的。戦闘後期には兵の命を軽んじる組織というものだろう。


それはその通りの部分も多かったが、そういう実像に対し、米軍側の分析を加え、それは日本軍なりの戦闘「合理性」の発露であると結論付けている。


しかしその「合理性」の中身はよいものとは言えず、なおかつ「予想外の事態が起きるとパニックに」、「ひとたび捕虜になれば自軍の情報提供に積極的に」など、純正日本人の私にとっても自分になぞらえて素直に納得できる、米国側の日本軍評価が全面に記載されている。


意外だったのは帝国陸軍に対する戦争初期の評価。「超人的」という捉え方をされていたようで、戦局が進むにつれ、「超人などではない」という評価が米軍内に定着していったとは知らなかった。


なお僕が本書で繰り広げられる考察で非凡に感じられた点は、相手側の米軍戦訓資料から日本軍の実態を照らし出し、日本軍側の資料ともつき合わせて自身の仮説に立体的な肉付けを与えるという、その理論展開の方法論だった。
膨大な資料を紐解き、解読するその探求姿勢は、この系統の研究を日頃から行っている筆者ならではの圧倒的なもので、豊富な事例紹介と傍証の提示で、一連の考察に重厚さを与えている。



アメリカ軍による敵軍考察は、徹頭徹尾客観性に最大限の重きを置き、感情を排し、冷徹なまでに敵国ジャパンを評価付けしている。


一方で著者は米軍の合理的な高度機械化部隊を前に作戦が成功せず、無駄に流血を繰り返す日本軍に「残念だ」の評価を繰り返す。


著者の情緒的描写と、米軍の冷徹な分析。戦後70年が経過した現在でも、本書ではこの2つが対照を成す。攻撃を受けてる最中でも、敵を「敵さん」と呼べる客観的な余裕が、戦術として昇華できてたらどうなっていただろう、という気がするが全部終わってしまったことだ。

 

 

<アメリカ…戦争のプロ国家にも弱点があった>


だがここでひとつ思うのだ。僕のような銃を撃ったこともないおっさんが、メチャメチャ偉そうに書かせてもらうが、アメリカ軍とはそんなに凄いのかと。


例えばベトナム戦争で米国は撤退した。あれは実質的な負けであった。


この敗戦の原因は、いろいろあるみたいだが表面的に言うと北ベトナム軍のゲリラ的抵抗が根強かったためである(と言われている)。
じゃあ北ベトナム兵はなぜそんなに米軍に頑強に抵抗できたかというと、こう書くと幼稚な表現だが、アメリカ兵とは「根性」が違ってたんだと思う。少し知的に、大儀って言ってもいいけれど、要は腹のくくり方、ハングリー精神、その違いだ。


北ベトナム側からすると、アメリカ兵という「侵略軍」と戦うことは、自分たち民族の生命の安全と、将来に直結する一大命題であって、そのためだったら泥水をすすり、屍を喰らってでも血の一滴まで闘い抜いてやる、そんな気概であふれていただろう。

 

そんな気骨の前では、国際情勢のようなマクロな視点も、愛国心のような自分を麻痺させられるような思想も、軍の規律的なものもそれほど必要ではなかったに違いない。覚悟のレベルが、ソウルフルな戦意が、アメリカ兵とは格段に違っていた。


つまり外部要因など不要であって、すべての北人民(兵だけではない)がひとりひとりが自分の問題として、いやおうなしに、リアルに、戦況に対決せざるを得なかったのだと思う。


一方アメリカ兵は、自分がベトナムで何に向かって銃を撃ちこんでるのか、よく分からない状況であっただろう。


何しろベトナム戦争自体が、共産主義とかいうものが相手だったり、ソ連という背後の黒幕みたいなのに対する代理戦争だったりと、どうも曖昧模糊としていたから。


また例えベトナムで敗退したとしても米国本土まで戦況が拡大するわけでもなかったので、米兵のガッツの最大の砦たる「愛国心」も希薄化。最後に残った「大儀」これはすなわちお得意のブラザーフッド、同志愛みたいなもののことだがこれだって、戦場があんまりにもエゲツないもんで、いつしかボルテージダウン。しまいには「何でこんなことしなきゃならんのだろう、こんなジャングルで」と心底思ったに違いない。つまり、戦う前からメゲてしまった。


「地獄の黙示録」という、ベトナム戦争を描いた昔の映画を観ると(しょせん映画だが)、アメリカ兵は暖衣飽食に明け暮れてるわ、物量にモノを言わせて遊び感覚で現地人を排除するわ(それもサーフィンするため)、マリファナに逃避してハイになってるわ、プレイボーイダンサーの慰問公演に熱中するわで、どうしようもない。あれは当時の実態そのものだったはず。


一方、ベトコン側は、「ネズミを食って抵抗している」(主人公のつぶやき)と表現されている。

 



ライフルもヘリコプターもナパーム弾も、改良に改良を重ねたし量的にも問題なく配備した。


部隊の運用法も戦術も、兵士のメンタル面のケアも、ジャングル戦にあわせて適切に修正し続けた。なのに負けた。


米国本土は当時厭戦、反戦ムードであったにせよ、あの戦争のプロ国家が総力を挙げても貧弱農民国を圧倒できなかったし、それどころかアメリカ軍には約6万の戦死者と、30万を越える行方不明者や負傷者を出し、大量の犠牲を強いられて撤退した。


これすべて双方における根性の差異、当事者意識の違いみたいなものに起因する、決意やモチベーションの違いが原因であった、などと結論してみる。

 

 

<精神的タフネスから見る西洋VSアジア>

とすれば、ジャングルでの大規模ゲリラ戦ということでは、特に意図したわけではなかったが近代歴史上初めての実績を持ってしまっている日本に話は戻る。旧日本軍(特に陸軍)の精神主義は、米軍の物量、シュミレーション、訓練、戦術など、いわゆる合理的なものの集積である軍事、言い換えれば、西洋的な合理属性の上に培われた組織に、非白人側からカウンターを当てた、最初の歴史的契機だった。

 

それは、ハングリー精神をもって合理的なものに相対するという挑戦行為に、結果的になった。高性能グラフィカルなCG全盛時代に、手弁当で着ぐるみ怪獣映画を撮るようなものだが、一見話にならぬようなローファイの中にも、「窮鼠猫を噛む」といわれるように勝機はあるのだ。なにくそという反骨精神、つまりのっぴきならない当事者肉弾戦だ。

 

こうしたハングリー精神は身に付けようとして身に付くタイプのものではない。その獲得に、訓練や方程式があるわけもなく、国民性もおそらくは関係ない。ベトナム戦争時のゲリラ兵、第二次世界大戦中のフランス国内の、ナチスに対するレジスタンス運動など、抵抗戦の中でもはじめから劣勢のものはほとんどの場合、こうした精神が核になっていたと想像する。日本軍の太平洋戦争末期に典型的だった、密林の洞穴の中で補給もなく、弾薬も少なく、故郷は遠く、戦死者は累積する一方というような背水の陣の中で、このハングリー精神は、個人の中に不退転の決意として熟成されていった。

 

南方戦線で米軍の冷徹な観察主義は、当時の日本軍の行動をたくみに分析することはできたろうし、心理面も一般的な国民性程度のものはもちろん十分把握できていただろう。

 

だがその「本当の精神主義」の解明までには至らなかったと思う。なぜならその領域は、誤解を恐れずにいうと「文学」分野であって、科学ではないのだから。客観的な分析、緻密な微分積分を進めていけばいくほど、わかってくる分野と、その反対にわからなくなる分野があるのだ。

 

開戦当時「超人」とまで思われていたその日本兵の、ホントの底力とはいったい何だったのか。そこを読めなかったから、アメリカは対日20年後に、ベトナムのジャングルでも同じような流血を繰り返したのではないか。


ただそのハングリー精神を発露する舞台として、戦争という究極の環境が選ばれたのは、期せずしてとはいえ、日米双方、そしてベトナム、そして世界にとって大きな不幸であった。人間のすばらしい能力のひとつであるハングリー精神が、悲しい使い方をされたという意味において。

 

本の話に戻るが、この著者は「残念だ」と繰り返し述べていると冒頭に書いた。しかしその「残念さ」は、当時の日本軍に対して向けられたものであった。それだけではなく、上に書いたようなハングリー精神をめぐる大きな不幸の構図に対しての「残念」表明であったなら、全体考察も公平に近づくのにな、と、この本を読んで、そんな感想を持ちました。

 

 

<了>