お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



構図と個人の間に横たわる、落差の距離を測る。

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洋風の朝食を作って、すべての食材に携わった人々に感謝しつつ、ありがたく頂く。ワンプレートが好みだ。

 

<休みが待ち遠しい人は賃金労働者>

 

いつ頃からか、僕はこう思うようになっている。

 

休みが待ち遠しい人は賃金労働者。それに対して周囲から「いつ休んでるの?」と心配されるくらいの人が本当の仕事人(の可能性が高い)、と。

 

会社員だったころ、担当の変わり目と、年末年始は、得意先の挨拶回りが定番だった。
あのころはそんなことばっかりやってた気がする。
今はそんなことしなくなって久しいが、ふとあの頃は何を目指して挨拶なんかやってたのだろうかと今でも思い出すことがある。先方からも「挨拶はもういい」とか言われてたのに。

 

挨拶めぐりだけに終始する得意先周りは、本当の営業の名に値しない小手先のテクニックだ。とりあえずの時間つぶしに過ぎない。

大事なのは挨拶回りだったらそれなりに挨拶だけに終わらせず、会話の中で相手のニーズを的確にとらまえて、その対策を練り上げ、提案することだろう。

 

値段の話が商談の最初に来るのが小手先営業で、最後に来るのが本当の営業などといえるかもしれない。

 

これは現在自営業をして生計を立てている僕の実感だけれども、本当の仕事、本来の営業をしていると、最終的に相手本位の発想になる。利害をある程度超えて、その人の役に立つ仕事をしたいと考えるようになる。そしてそれはモノ・カネ属性ではなく、ヒト由来の新しい仕事価値観の芽生えだと思う(あくまで個人的な受け止め方のハナシだけれども)。
年収や貯蓄額、資産といった、金銭面で一面的に人物を評価する風潮に対するアンチテーゼとしての新しい価値観の契機である。
またそれは、大きな枠で言うと貨幣経済や資本主義を超克する可能性を秘めている態度だと思う。繰り返しになるが、個人発信で、である。


仕事に関して言うと個人に対して会社ってものが位置づけられるけれど、すべての企業にはいわゆるブラック企業化する萌芽が秘められている。だから労働基準法など、資本家や経営陣を抑制する縛りが存在する。そう基本的に会社とは、性善説によって運営される組織ではない。
だから、労働の自由化の美名の元に、10年程前、派遣労働の裁量を企業にゆだねた途端、搾取の被害が増大するのはまったく自明の動きであった。

 

(資本家だって経営陣だって、労働者と同じ人間なのに…こう考えると、なんて不幸な構図だろう)

 

不幸といえばその一方の労働者側にも不幸があって、いわゆる社畜という、自嘲が含まれてるにせよ受身の生き方の究極みたいな現象が、集団の規律維持とマジメさ重視の国民性の中で、連綿と以前から発生しており、真綿で首を絞めるような貧困も、同時にじわじわ押し寄せている。

そしてそれはこれまた自由主義という美名の元で、足の引っ張り合いなども一部(いや相当)あり、いつ何どきどんな人でも、その闇に陥りかねない暗黒が、目に見えないけれども僕たちのすぐ隣に、くろぐろと形成されている。社会的弱者といわれている層ほど、その直撃を受けやすいのは周知のとおりだ。特に若い女性の貧困は、シングルマザーも含めて深刻だと聞く。

 

ブラック企業、社畜、いづれの言葉もとても、とても、美しくない。息詰まるような冷たい、抑圧的排他的な語感だ。その中に取り込まれたいと本当に、積極的に思う人なんて一人もいない。
人間疎外をそこまで強調せんとならんのか現代は、これが進歩なのかと悲しくおもう。

 

と同時に、前にも書いたけれど、絆とか元気とか頑張れとかいう、甘く耳障りもいいけれど空虚なメッセージに、僕たちは取り巻かれてもいる。面と向かっては非難する筋合いもないようなこうした思想こそが、われわれの深層心理を善意方向で抑圧する。

”地域限定社員制度で、多様な働き方を"というような、一見エエコトを謳う会社の裏には、給与削減や人員使い捨ての思惑が潜んでいる。為政者の中にはそうした力を利用して大衆をマインドコントロールしようとする手合いもいる。だがそれでは安易にすぎるというものだ。

 

じゃあ生活者としての僕らにとって、この社会、どこに活路があるのか?

 

大丈夫、一つだけだが確実な手がある。それは一人でなにか成し遂げることだ。個人でどっかに花壇をつくって、そこで自前の花を育て、咲かせることだ。

自分がどうしたいのか、どうしていくか、一般論ではなく、そこにフォーカスし続けることだ。

 

 

<「鶏口となるも、牛後となる勿れ」>

 

テレビなどで不況の報道や論説、コメント垂れ流し番組なんかがあるが、あれを観てると何言ってやんでぇみたいになることがとても多い。
為替相場、TPP、GDP、格差、景気、株価、ワーキングプア、コスト、増税…こうした経済と呼ばれてる分野において色んな人が色んなことを言うけれど、そこでひとつだけ共通しているのは、すべてが他律的な一般論だということ。

 

「自分にしかできない本当の仕事に、腹を据えてまい進していくこと。その連鎖が結果的に全般的・根源的な不況対策になっていくんだ」なんてことは誰も言わない。少なくとも聞こえては来ない。あたりさわりのないことを言っていればお金が流れ込む立場なんだから一般論しか出てこないわけだ。


経済学も経済理論も何も知らないが、この不況を打破したいなら自分が率先して、自分の食い扶持分だけでももたせるような小さい経済を作って維持していくことしかないだろう。
昔のことわざにあるように、時局を打開するのはまさに「鶏口(けいこう)となるも、牛後(ぎゅうご)となる勿れ(なかれ)」しかないと思ってる。

 

たとえばリストラ、たとえば派遣切りなどの横行、すなわち誰かに泣いてもらって利潤を(ムリヤリ)生み出すような形態は、そろそろ日本からヤメにしていかないか?
その決別のメソッドを確立して世界に無償で広げられれば、本当に世界からリスペクトを得られる。
以前も書いたがそれは本当の国際貢献になりうるし、ひいては本当の和平達成にもなりうる。
大人なんだからそういうふうに、全人類的に好循環を生み出す契機にしていかなきゃダメだろう。目標はマルクスの資本論の、止揚による形骸化である。

 

<機構vs個人を意識する、それが自立の契機>

 

日本は本末転倒が幅を利かせている社会。僕なりに換言すれば目的と手段を混同しがちな社会である。

 

例えば株投資。「儲ける」「儲かる」の、僕に言わせれば空虚言葉のオンパレードのあの分野だが、本来「株を買う」とは、自分で学んで、自分なりに成熟した企業観を持った投資家が、これから伸びそうな分野に応援の意味で投資をして、その結果、数年後にでも配当を得させていただくのが本当の「株で儲かった」ってことなのではないのか。
目先の利益や利己主義のみに陥り、その業界や該当企業の内実(血と汗)、新興産業の苦労を知りもしないで表面的な株価情報で一喜一憂し、短期の欠損を繰り返してるようでは、単に株式市場もしくは証券会社の奴隷ではないのか。それもギャンブル的な意味合いの濃い奴隷である。


いつだって目的と手段を混同しない、本末転倒からは遠く離れている。そしてスマホの新アプリだとか、SNSでのやりとりとか、そんなつまらないことに拘泥してはいけない。
ルーティーンワークや定量的な作業があるならあるでいいけれど、そこに流されないでそのホントの意味を常に見据えていて、忘れない。
これを自立基調にしたいと思う。

 

話は飛ぶ・よ・う・だ・が、最後に。

きょう8/11、川内原発のスタートレバーを操作した運転員は、自分が何のスイッチを入れたのか。
70年前エノラゲイの乗組員は、広島上空で何に対して、操作レバーを引いたのか。

その「引かせた」構図と、「引いた」個人との間の位相と距離を、ゆめ忘れてはならない。

 

<了>