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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



私的資本論の大ブロシキ。

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メロンに発酵させたヨーグルトを添えて頂く。メロンの皮の部分はいい肥料になるたぶん(本文と関係あります)

 

<「経済」って言葉は人民を救うって意味なんだって、本来は>


いきなりですがいまの経済とは、数値の思考体系であります。
前年比、予算、為替の上下、粗利、確率、予測、株価、給料、経済格差。だいたいがビットコインも貨幣も、すべてそう。

教育もそうですな。学力テストの点数、偏差値、IQの値など、数値の中で自己の位置が相対的に定義されます。

このまえ、健康診断受けてきたけど、これだって圧倒的な数値の嵐!
やれ何とか値が上がっただの下がっただので一喜一憂してしまいます。
医術よ、おまえもか。おまえも計量可能な、可視化の世界の住人なのか。仁術では、なかったのかや?

 

翻ってわれわれの人生、暮らし、感情、個性、芸術は、微分積分でも算数でも数字でも勝ち負けでも統計学でもない、極めて極めてアナログな存在、絶対的で非可視の世界です。
ご飯食べて消化しきれないものをウンチして、呼吸しながら入浴して、子供と戯れ、景色に感動したりして夜は酒を飲んでバカ話をする。
経済理論からすると、ヒトは非合理そのものです。

しかしいくら非合理でも不条理でもいいのであります。なぜなら何かの役に立つために生まれてきた人などおらず、ましてや何らかの数字に貢献するために生を授かった人など、有史以来ひとりもいないからです。

「時(とき)」とは何であるか?「進歩」「成長」は、ホントのところどういうことなのか。「自分」とは何なのか?「病」はどういう影響があるものなのか、人生に「解」はあるのか?正常心理と異常心理との有意な差はあるのか…等々に関する「事業計画書」なんてものは無いのであります。

数値(経済)と、数値でないもの(人間)の、この2つの隔たりはあまりに大きく、いわゆるビジネス書や仕事論、自己啓発書のコーナーは、マルクスの「資本論」以降この隔たりを少しでも埋めようという古今東西の書籍で、本屋も図書館もいっぱいであります。


そういえば読書という行為すら、読む速さとか、量で捉えてる限りは数字思考の枠内であり、字面だけ追っても単なる消化試合。本さえ読んでさえいれば秀才みたいな感覚は、むしろ教育制度の空虚さを浮かび上がらせるだけの、大いなる幻想です。


で、数値で掴むのが経営、優秀なビジネスパーソンは決算書を読みこなすだなんて、まことしやかに言われますが、それは方程式とかテストみたいなもので、ある意味イージー。

そりゃあ計数知識は仕事で少しは必要だけど、だいたい数値で掴むのって本当にそんなにえらいのか?
ホントの経済ってのは、そうした部分には顕在化してない、隠れてる要素だって思ってまして。
あえて言うとそうしたイージーさの裏に、ごまかしがシッカリ隠れてる気がしてしょうがない。


そう、その2つを埋めるのなんか、ハナっからムリなんであります。

 


<多量が前提の消費社会って何じゃろな>

いまの日本はデフレとか言われて久しいけれども、もうモノは満ち溢れてるではありませんか40年ほど前から。
この大量生産社会では、いらないものをいるものと思い込まされているだけなんであります、たいていは。

ユニクロをごらんなさい。あれほど多種多様な服がシーズンごとに並べ立てられますが、4半期にいっぺんくらいの周期で億単位で生産し、億単位で値下げして、千万単位で廃棄されていくのです。
確認したことはありませんが多分そうです。
ユニクロで見ていると店員さんのオペレーションのかなりの部分が、既存商品の段階的値下げ本部指示に従った値札の貼り替えと、そうした格下げ商品の店頭一等地からワゴン等への移動、そしてそこまでしてもなおかつ過剰な在庫の本部倉庫への移送とその一連の監視管理労使などなど…で費やされているようです。


で、売れ行きが下がると(下がってなくても)本部は色んな服をリリースしてカバーしようとする、カラバリも豊富にする。もちろんサイズだって同様。
その動きをマスコミと結託して、ビジネス面でもファッション面でもトレンドとして盛り立てる。そしてそれをワールドワイドに展開する。ユニクロの、広告に費やす費用もすさまじいものがあるね。折込チラシ、毎週金曜に必ず入ってるモン。ほとんど洗脳とか脅迫ですよ、あれは。
こうなるとイチ店員にすれば量に凌駕されて、売り場の変更などで多少のクリエイティブさを発揮するくらいしか、労働の楽しみがないのです(断言)。それかお客さんへの対応で日が暮れて、それだけで充実した気になるか。


ところがですよ、買う方は服はもうそんなに要らないときた。少なくとも、あればあるだけ欲しい人は少数派。
ユニクロがメインターゲットとする顧客層(=非ファッションピープル)であれば、なおのこと服はもう飽和であるという、この大いなるパラドックス。


これが今どきの経済の正体であるならば、世の中は資本の規模さえあれば演じられる、一大モンキーマジックショーではありませんか。かくして、金は金を呼ぶと言われるわけです。



<マイ経済原理のハナシ>

さっきの(経済=数値)を言い直せば、経済は一般化という魔法でもあります。ところが人はみんな違う個別の存在で代替不可です。
生まれてこのかた僕たちは、この一般化の命題の元にベターッと塗り込められ、押し込められ、ひとり残らずみんな窒息寸前じゃないですか。歯車のコマだと自嘲しながら。

この記事の冒頭は数値の話から始めましたが、職種的に数字と隣りあわせだと思われている営業系の仕事の人や経営・経理畑の人ばかりでなく、例えば工場で働いてる肉体労働系の人だって、当然この閉塞感からは逃れられない。
工場内の導線配備のみならず、腕の曲げ伸ばしの一挙手一投足に至るまで、従業員のパフォーマンスがミクロ単位で分析され、数値化され、能率・効率の名の元で管理、制御されている現状に息苦しさを感じないのは、これはもうターミネーターだけです。

このことに意識的な個人は、大量生産品ではなく、カスタマイズされたもの、一点しかないもの、ほかの人とかぶらないものを志向します。特に若い人に顕著なこの志向、大分前からそうなってますね。
たとえファッションみたいな、わかりやすい限定された分野であっても、です。

しかしですな、我々は長年経済的なるものに、こんなに痛めつけられてきたんですから、2015年ここはひとつ、そんなわかりやすい分野限定ではなく、大枠経済の方から個人に歩み寄ってもらわねば。

どういうことか?それは本当の経済、つまり人間本位の経済の復権(もし、そんな言い方が許されるのなら)を志向・指向・試行することであります。

ここらへんから、ま・と・め。

本当の経済とは、なにか現象をある一般的な鋳型に押し込んで落着するものではなくて、個別のものを個別の輝きのままで保存したり光らせるための理論であってほしい。


劣等と優性を、優劣の枠から解き放ち、並列に評価するための知性であってほしい。


既存のものを優遇し、それ以外のものを抑圧するのとは、逆のものであってほしい。


見かけの悪い作物を市場から排除して落着する論理ではなく、見てくれが良くなくても栄養は変わらんのだということで1ミリのムダなく使いきってみんなハッピーという世界観を提示し、子供たちの大いなる希望になって欲しい。

経済学が人間が生み出した理論なら、計算の中に自足していくのではなく、僕をあなたを、輝かせる方向に補助し、導くものであってほしいのです。

古くはマルクスとかケインズとか、最近ではトマ・ピケティとかの経済解釈は、それはそれとしていいですが、この2015年以降は、生活者本位のリアルで納得も得心もいく、本当の経済が切望されてるのではないでしょうか。


というわけでメッチャ簡単ですが、私的資本論の指摘を、終わりますw

 

(了)