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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



安保関連法案~長い政治用語とシンプルな心理。その2つの間に横たわるもの。

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今日のお昼はタイのイエローカレー。チキンのゴロゴロ感を味わって頂く(画像と本文は関係ありません)

 
<C長(調)言葉にご用心>

今日の記事は安保関連法案について。いまさらなんだけど。

ご存知のとおり「関連」となってるのは、10法案を一括で改正するという、なんとも都合のいい、閉店間際の抱き合わせ在庫一掃セールみたいな、たいへんインスタントで一見効率的で、エリートの考えそうなやり口を採用しているから。


ということで、その10法案の名称を改めてではありますが、ここに挙げると、


①武力攻撃事態法
②重要影響事態法
③自衛隊法
④米軍等行動関連措置法
⑤特定公共施設利用法
⑥海上輸送規制法
⑦捕虜取り扱い法
⑧船舶検査活動法
⑨国家安全保障会議設置法
⑩PKO協力法


そして新法としては国際平和支援法

 

以上どーですか、いきなり各論のオンパレードですね。想定される具体的な有事をあれこれシュミレーションして、それに片っ端から名称を付けた感じ。ほとんど「ナニをどーして、どーたら法」のワンパターン。しかも10本も束ねて一体何を「守る」というのだろう?もうこれだけでムリヤリ感が漂ってくるじゃありませんか。あと最後の「国際平和支援法」の、いかにも後付け感ありありの名称とか、完璧なんだがw

 

目に見えるものしか見ないことに凝り固まった、なにがなんでも具体的であらねばならん、という脅迫怨念が感じられるキナ臭くてはた迷惑なガンバリズムと、最後の2つである「PKO協力法」、「国際平和支援法」あたりのノホホン感の対比がほとんど滑稽だが、そこにだまされてはイカン。

 

普遍的で包括的な人間定理と、国家や政権の定義みたいな「目に見えないもの/見えにくいもの=永続するもの」を、格調高く明文化して自身のプリンシプルとする日本国憲法、特に9条のシンプルに光る硬度とは、比較しようもない条例レベルの法案群。


このそれぞれの法案に、これまたいちいち漏れなく難しい運用解釈とか、言葉の定義付けが付いて回り、まるでケータイの料金プランとか生命保険の約定みたいな、ケムに巻くような世界が展開されてるのも、先刻みなさまご存知の通りであります。



ちょっと脱線すると、これ間違いなく官僚と呼ばれる身分の方々が、毎晩夜なべして、各法案の文面を整合性のつく体裁に、言葉のアヤも含めて仕上げてくださったんだと思うと、これはもう税金(=官僚の人件費とか)を湯水のように使って、わざわざ戦への道筋を、机上の空論レベルで付けて頂いたってことで、部分最適のプロのみなさんゴクローさん。
キャリアだか高給取りだか知らんが、そんなものが仕事だと勘違いなさらず、全体最適的な「本当の仕事」を他でお探しあそばせ、などとしか申し上げようがない、僕としては。


さてここらで僕が感じることを言わせてもらうと、


ウソの上にウソを上塗りし、無理の上に無理を重ねると、言葉、特に政治用語は長く、多くなり、その説明も複雑怪奇なものとなるっていう(集団的自衛権の話とかね。ロジックが奇妙過ぎて説明再現も困難)、まぁ当たり前のことですよね。


そのあげくに「議論を尽くして」とか「国民の理解を得る」なんてフレーズが飛び出してきたら末期も末期、警戒注意報発令だ。ここでいう「議論」とか「理解」って言葉は、為政者側からすると強制的な「従属」とか「受容」って意味だからだ。

 

長い形容詞の連発や、くどくど述べながらも論理の一貫性がない話、情緒レベルのどうでもいい内容を繰り返し織り交ぜて、一方的に話は進んでいく。相手の長話に巻き込まれていくうちに、何となくそうかもなどと思い始める。

 

かくして、オレオレ詐欺は成功する。


あああ特定秘密保護法の時もそうだった
ついこのまえ6月の、労働者派遣法改正案の時もそうだった
集団的自衛権行使の解釈を、説明しはじめた時もそうだった
後期高齢者とかいう、人をナメた乱暴な術語を押し付けてきたときもそうだった


そんな長い言葉を使った偽善で、福島県の太平洋側はエリアも人も未来を奪われつつある。
(2014年10/1時点の呼称で「避難指示解除準備区域」だと…「避難指示」を「解除」する「準備」をしてる「区域」だと…普段暮しの街を、住民を、絶望的な荒野にあっという間に至らしめた痛みも反省も総括も、何にも伝えていないこの名称の無自覚さ!冷酷さ!ラーメン屋の「支度中」看板じゃねーんだぞ、おためごかしもいいかげんにしろふざけんな!この調子じゃまた原発の悲劇を起こすぞ!!国家間戦争よりある意味ひどい)


そしてウソや無理で世論を誘導する意思があるならあるで、その役目を自覚的にまっとうするならまだしも、腹も据えず引き受けもしない。ふにゃふにゃなまま逃げを打つ道だけは用意してある。

 

これだと肝心なトコでゲタを放り出すに決まっとる。

 


<おしゃべり(長いトーク)は、詐欺のはじまり>

今回の安保推進派にとっては、アメリカさんとの関係とか、中国けしからんの論理しかないのかもしれないが、ここでは根本的な反省が省みられることがないのが気になりましたんであります。


根本的反省とは…


まず、戦争はしてはいけない。の・だ・が、


しかし、起きる、のか、起こす、のか、けしかけられるのか、その生起の順序は分からないが、戦争状態になる日はふたたび来る。

 

それが紛争か、テロ的な範疇のものなのか、はたまたフォークランド紛争のような局地戦で収まる小競り合いレベルかは、予測できないけれども(国家間の総力戦になったらおしまいだ)


なぜなら戦争を起こしてしまう可能性は、ほかならぬ僕の中に、じつは十分にあるからだ。僕の心のなかには暴力の発芽が確かにあるのだ。それはこういう生活局面で露呈する。

■電車の中で空席を目指してしまう。その時、周囲は見えていない。
■立ち見のライブでミュージシャンが登場すると、われ先に一歩でも前へと思う。
■A5用紙の束を揃えている中に、A5でないサイズが入ってると舌打ちしてしまう。
■細かいことに個別に対応するきめ細やかさより、一気にドサーっと片付けたい。
■人を出し抜きざま、ざまーみろと心の中で舌を出す。
■お酒みたいな、思考停止を促すものに依存するのが大好きだ。


こんなことはいくらでも挙げることができる。要するに僕は浅はかなお調子者で、なにもかもが自分の思い通りにならないといやなのだ。


このしょーもない、自分を律することのできない甘えた心理が、僕の暴力のきっかけである。そしてこれが多数になった時が、古今東西すべての戦争の「本当の原因」に違いない。


…というような、心理面を見つめてきた形跡が、今回の議論にはものの見事にスッポ抜けてるのが根本的間違いだと思うのだ。今回の話は戦闘や戦争、紛争とどう向き合うかっていうのが実質だけど、その話をするには暴力をどうとらえるのかっていう人間定義の前提が欠かせない。なのに、ここの議論がされたためしがなくて、いきなり法運用/言葉の解釈問題とか国際問題のウンチャラという風にレベルダウンされてスリ替わってる。憲法解釈はあったが、それだって字面の議論だけだ。国政の場ですでにそうなのだから、具体的一般的なことしか審議できない粗雑さには脱力するしかない。

 

抽象的ではなく具体的に論議をすすめるのはアリだが、眼前の具体に目を眩ませられ続けていると本質が見えないことは、議論に参加する全員が常に自覚してなくてはならない。それを端折るから、例えば例の競技場は2,520億円かかることになってしまう。


いつだって「議論」とやらは、他人の言葉を使った他人事と、そうした既定の空気の上に立脚した仮定の中で希釈されてしまう。そんなものは当為としてのディスカッションにすぎない。
自分にひきつけて状況を捉えるとか、己の内面でダメだしを繰り返しながら批評を組み立てるなど、そんな発想からしか、本当にためになる議論は出てこない。


だからせめて制度面で足かせを履かせて、暴力に対する抑止力としておきたいのだ。また、周囲に拳銃がなかったり、爆発物が容易に手に入らなかったりというような、物理面での制限も必要なんだ。
そのための前提となるのが憲法九条であり、それは最低限の理性なんだ。
アメリカからの押し付け憲法だろうが青臭かろうが、最上位の憲章で自らが自らを非戦闘国家だと規定するという、ほかの国ではやってないそのズンとした重みと、歯を食いしばってでもそれを貫徹するという意志が必要なんだ。


自分が狂ってしまわないために。


しかもこれだけでは内なる暴力性の抑制には不足なのだ弱すぎるのだ。なぜなら自分の外部のもの(法律、制度)にその抑制を依存してるだけだから。これは対処療法に過ぎないんだと見限る配慮も必要だ。


すべての反戦というのものはデモしたり、シュプレヒコールをぶち上げたり、何かの反戦団体に属することだけではない。いやむしろ、そこではない。
自分の内なる暴力を認識し、向き合い、抑制していく内省態度からしか、非戦は始まらない。

 

<安全保障という美名を疑う>

安保関連法案にまつわる国会でのドタバタが、かえってこれら法案群が、じつは「安全」を「保障」するものではないことをあらわしている。仮想敵国(いやな言葉だ)があるとすれば、あの強行採決風景を見たら

 

「茶番はともかく、いよいよマジおっぱじめるつもりだな」

 

と考えて、アルマジロのように体を丸めたり、剣を研ぎ始めたりするだろう。


本当の「安全保障」とは、もっとおだやかで、シンプルで、風通しのいい明文化の中にあるべきだ。
車の安全装置の性能向上と同じように、誰にでも平易で、透明で、歓迎されるべき話のはずじゃないか。
というか、人の理性を信じ、制度や法整備の俎上にすらのぼらないのが、ほんとうの安全だ。そう、これは性善説。

 

外交の基調は友好路線である。友好こそがヤワに見えながらもっともタフで、自衛にふさわしい手段だ。人殺ししたがる、あるいは自分が破滅したがる民衆なんか、どこの国にも、どの時代にもいないのであって、友好への「障害」は、ときの政権や、そこの軍部なだけのはずである。日本はアメリカに対しても、いつまでも武器を振り回すのはよさんか、などと具申するのが、本当の"同盟国"であろう。


制度に「昇格」させ既成事実にしてしまい、「ひとごと」化して人民に定着させ、忘却させるまで持っていってしまうのが、為政者のいつもの手だが、今回ばかりは重大だ。


ていのいい既成事実のひとつが自衛隊の存在だが、みなさんお気づきの通りこれは今となってはなかなか巧妙な必要悪で、僕の友人も入隊してるから他人事でもないのだが、直接の軍事的脅威はこれで回避、防御、減じるしかない。それだけでもずいぶん助かると思う。


さて今回の記事は論旨が支離滅裂で申し訳ないが、ここで強引にまとめてしまうと、

冒頭で書いたように、長い政治用語で表現される状況には、必ず無理やウソが潜んでいる。
そしてその無理が通れば、今度は道理が引っ込む。それへ対応方法は、僕が個人でよき人を目指すしかないと思ってる。自分のくだらなさを見つめて、ささくれだちそうになる自我を引っ込めるよう戒めている。

ナイーヴな見方なのは自覚しているし、どうも健全とはいえない。不幸なことだと自分でも思う。行動が伴ってないじゃないかという批判もぜったいあるはずだ。


でも僕は自分をデーモンにはしたくないのだ。こういう文章を書いて自分に抵抗してるつもりなんだ。


さて、あなたはどうだろうか?

 

(了)