読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



「お疲れ様」氾濫の陰に潜むもの

f:id:fotobiginesu:20150710162932j:plain

今日のお昼は大好物のグリーンカレー(画像と本文は関係ありません)

 

<みんなそんなに疲れてるの?>

「おつかれさま」って魔法の(?)フレーズ、みなさまよくご存知ですよね。


オフィスで、電話口で、営業先で街角で、この言葉を聞かない日はない。
老若男女に浸透した、まさに現代ニッポンを代表する用語であります。


最近では勤労の場面でなくてもよく使われ、特に若者の間ではほとんどあいさつ言語化。
試験が終わったら「おつかれ」、放課後に友達と会ったら「おつかれ」。
少し気だるく言うのがポイントみたい笑

営業の現場では、かなりの人が電話で一発目から「おつかれさま」で話し始め、相手の「お疲れ様」に対してまたさらに「おつかれ」などと返し、同一言葉がインフレを起こしてるみたいな光景も頻繁に耳にしますなぁ。


こうやってたくさん言えば相手へのねぎらい度がアップする…わけじゃないよねぇ。



最近の会社では時短やらフレックス制なんつって、事務所に顔出しても3時間くらいで仕事終了などという、ドライな勤務形態も定着しているけど、朝からオフィスに来て昼前には帰る(というか次の場所に移動する)、そんな疲れてもいなさそうな人に対して、お天道さんの高いうちから「お疲れ」だなんて風景も。


いくら「おつかれさま」が退社の際の常套句だからって、違和感あるよねぇ。


そういうときは「ごきげんよう」とか「また明日」とか「気をつけて帰ってね」とか、いくらでも別の表現があるじゃんかと思う(や、これはさすがにそういう言い回しをする人もいますね)


ヘアカットスタジオとかでも、シャンプー終われば「お疲れ様で~す」、カットが終われば「お疲れ様で~す」。
客になんかアクションさせる度に繰り返される「お疲れさま」。
しかも周囲のスタッフまでもが、その客に目もくれず(←これも不思議といえば不思議)オウム返しのように合唱。
もちろんコチラは微塵も疲れてないワケで。


悪いけどこうなるともはや滑稽な光景なんだけど、お店の方からしたら自然というか、この言葉を使わないと落ち着かないのかねぇ。

 

お店といえばもうひとつだけ。
例えばショップなどで店員サン同士のおつかれ言葉の応酬を、いやおうなしに聞かされる時ってありますが、そうなった際、自分は「なんだかなぁ」と思っちゃう派です笑。
他人同士の同窓会に場違い出席してるみたいで、「おつかれ」って聞こえても自分(いちおう、客)に向けられた言葉でもないから、僕のようなヒネくれた第三者はハッキリ言って白けるばかりなんです。


別に客だからっていばってるワケじゃなく、自分不在の会話の只中にいるのがどうも居心地が悪いっていうか。
そんなささいなところにいちいち目くじら立てるのも筋違いだし野暮だしで、そんな会話は聞き流せばいいだけなんですがね。


こうして今日も「お疲れさま」が街中で鳴り響いてるわけです。平和な光景で結構結構…だよねぇホントなら。

 

<おつかれさまってホントに思って言ってる?>

 

さて日々大量に空費されてるこの「おつかれさま」。僕は言語学者でも社会論者でもないから、この言葉の歴史も発祥も知らないワケですが、どうも昔から違和感だけはありましてね。

 

違和感っていってもモチロンこの「おつかれさま」という言葉自体に罪は無く、この記事全般には言葉狩りの主旨もない。

 

しかるべきときにしかるべき重さで発せられる「おつかれさま」には、相応の意味がこもっているんだろうと思います。

 

ただ、「たかが常套句、されど常套句」。言葉はしっかり使って意思疎通していきたいと考えるだけなんであります。

 

上に書いたように現代の「お疲れさま」は、その本来の意味である「相手を慮ってのねぎらい言葉」という内実は空虚になり、ただのライトな単語に成り下がってます。というか言葉だから人物本位の遣われ方しかありえない訳で、その意味からいうとチリ紙のような使い捨ての遣い方をされるようになってるんじゃないかと。

 

自分の感情や信条を、そうした中身が薄まった「おつかれさま」に仮託して、何とな~くコミュニケーションを取ったつもり。

 

もしくは人間関係の潤滑油のつもりで、ぶっきらぼうさ回避の発想でのみ遣われる自己保身的で怠惰な隠蔽表現。

 

そんなニオイがします。

 

そしてそうした安直な言葉遣いで間に合わせる背景に垣間見えるショートカット根性、コイツが気に入らないんです。

 

<シニカルのススメ>

 

自分の感情・信条・感性といった内面は、自分にしか大切に出来ないかけがえのないものです。

 

そしてその大切なものはなるべく言葉で対象化して自分の中に定着させておきたいって僕は思ってます。

 

手紙で使うような時節の表現や、おはようみたいな定型挨拶は、それはそれでいいと思うけど、ある言葉への違和感があったなら僕は点検するなり再定義するなり新しい表現を探すなりして、よりフィットする表現を吟味してみるようにしてる。

 

言葉に対するそういう姿勢が巡り巡って、自分の感性をふたたび磨いてくれることも、あるんじゃないかなと信じてる。

 

そこまでするのが大変な時は、日頃よく使う表現であればあるほど、ただ流されるようにして使うんじゃなく、疑ってかかる、ツッコミを入れる、または少なくとも一度自分の中で咀嚼してから口に出してみるようにしてます。

 

そしてその契機となるのは、自分の中のある種の「違和感」であることが多いです(他には好きな作者の本から刺激を受けたりとか)

 

偉そうに言わせてもらえば、「違和感を育む」ようなこうした態度は今ドキの大人の流儀だと思ってるんです。「おつかれさま」も同じこと。

 

時々でいいから、そういう自分の意識のささくれみたいなものを注視するクセを養成しとかないと、世間に喧伝される心地よいキャッチフレーズや、選挙の時とかに連発される、万人が否定できないような一見正義風のイシューなんかにふわっと流されそうになる。

 

世に蔓延する詐欺にも引っかかりやすいんじゃないかな、大げさに言うと。

 

そんなトラップは、今の世の中には溢れてるじゃないですか。たとえば「絆」「元気」「雇用」「景気」「人脈」「金儲け」、(オリジナルの意味まで遡ることをサボりつつ遣う)各種のカタカナ語、etcetc…

 

いづれもやわらかい、もしくは無思想、もしくは喫緊の課題のような表現を隠れミノにして、その実その背後には、あなたを突き刺して食い物にしようとする刃が隠れているかもしれない。

 

しかもその刃は、往々にして発語者にすら意識されず、共犯のように僕たちの潜在意識に浸透していく。

 

紋切型の表現や単語に対しては、ツッコミを入れるような態度を。

 

口当たりのいい表現に対しては眉に唾付けて聞くくらいのヒネクレ加減を。

 

こんなシニカルな態度が今の時代は、いや、いつの時代もちょうどいいと思います。人が言葉を遣う時代が続く限り。

 

なんだかずいぶん大きな話になっちゃった笑

 

とりあえず安易なおつかれ連発は、今日からちょっと控えてみませんか。ぶっきらぼうに見えて案外風通しよくなるかもです。

 

ということでここまで読んでくれて、おつかれさまw

 

(了)