お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



おんりーいえすたでぃ

音楽がレコードだった時代、LP盤のミゾで音楽が「読めた」。深い溝は音が大きく、ミゾが疎遠の部分はかそけき音圧だった。曲間も分かり、曲数も、2曲で1曲などの、アルバムの構成も、針を落とす前にある程度判明したものだった。

 

LP(ロングプレイヤーの略)は片面せいぜい30分の収録時間。A面B面合わせて46~60分のユニットという形式が、音楽の再生表現に独自の世界観を呼び込んだ。半分過ぎたら手動で盤を裏返すことで聴く態度をリセットさせる、その行為の合理。ジャケットは肉厚の紙に重厚な印刷。それ自体がアート。聞いてる間はジャケットに目をやり、ミュージシャンの営為をあれこれ想像する手がかりとする。


メールもスマホもPCもなく、手紙でやりとりしていた時代は、封筒の厚さで内容まで推測できた。中味だって書き文字の筆圧や文の乱れが、時に書かれた内容以上に雄弁な場合も往々にしてあった。なにより字体は、人となりそのものであった。


本も、特に文庫は、ページの厚さで読む量が物理的に推し量れたし、また読んでる最中の進度も一目瞭然であった。紙の手触り、印刷の品質(オフセットなど)、段組みの適度なスペース感などが、読書という行為を円滑にすすめるにあたって重要なアシスト要素となる。

 

このように表現形態と、媒体の物理的関係は、存外無視できない。


いわゆる古典文学も、書いてある中味は同じだけれど、例えば半世紀以上前の、粗いワラ半紙の写植、旧かなづかい満載の戦前みたいな翻訳と、今風の新訳で電子書籍という新プラットフォームで読むのとでは、同じ本でもかなり風合いが違う。プラトンの本などをパピルスの巻き本で読んでいた時代は、読書とはいかなるスタイルだったのだろうか。

 

どれがいい悪いでは、無論ないのだけれど、興味はつきない。人とメディアのかかわり推移を見てると、人類は一歩も進歩してない気もするね。

 

<了>