死者に弔われるのは、生者だ。
永六輔に野坂昭如、菅原文太に愛川欽也、大橋巨泉やマイケル・チミノ(米国の映画監督)
著名人が逝く。
逝くとは、ぼくなりに言えば、人が生まれた大元の円満に還っていくことだ。だから死んだ人とお別れするのにふさわしい言葉は、明るい響きのする「今日の日はさようなら」という感じか。
彼らは何にもいわないけれど、大元に還ってぼくら生者を応援してくれてる。何を応援してくれるかというと、未来の世代に役立つという、現世の生者にしかできない仕事に対して応援してくれている。冒頭に挙げた故人たちも、存命中はそれぞれの分野で、たぶん先人たちの引継ぎの中で、いい仕事を成し遂げてきた。その成果をぼくらは享受してる。そう、こうやって循環しながら、代謝しながら未来は前進してなくては。今よりどんどん良くなっていなければ。
肉体の消滅した死者が、円満を伴ってまた別の肉体に宿るのは、未来に約束されている。ぼくの一部は必ずあなたの生まれ変わり成分であり、あなたも然りだ。実際の血縁という次元の前に、人間(じんかん)はそういう仕組みになっている。
ことしの初め、1歳9ヶ月の知人が急病で死んでしまったのだけれど、その子の円満な笑顔の遺影を見てたら、その子の一部がすでにぼくの中にあるって分かってしまった。30分くらいしか遊んだことのない子だったけど、「分かって」しまった。
生まれ変わるっていっても亡くなった個人がまんまよみがえるって意味じゃない。そうじゃなくてぼくの血液も体液も遺伝子も、人類発祥以来の歴史はみんなそこに詰まってるってことだ。その中に含まれた形で死者はよみがえる。いや蘇るというよりも、連綿とした死の状態は、実はないといった方が正しい。
輪廻転生とか、リ・インカーネーションとかいう考えに近いが、あれは生まれ変わり信仰であってそれではまだ全体性が足りない。人はもっともっと大きなメガ普遍の中に生きてるのだ。
8月15日も近いが、特定の日に靖国みたいな小さな規範に向かって頭を垂れるだけではよくない。戦争で無為に殺し殺されたすべての魂を念頭において、今日も役立つ仕事をしよう。
<了>