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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



スマホに白目剥いてる顔で写る人、その目やめてほしい。

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*「死霊のはわらた」(サム・ライミ監督1981年)より。ホラーと笑いをミックスした作風は、時代の最先端だった。

 

スマホで白目剥いてる画像に写る人、その目やめてほしい。

 

白目になって画像に写る人、SNSで時々見かけますよね。あれ困ってるんです。

 

話題自体は楽しいものだったりするので、白目ごときで難クセ付けたり目くじら立てても仕方なく、違和感はスルーしますけど、本心ではちょっと気味が悪い。

 

リア充の逆アピールなのか、何かのおまじないなのか、はたまた流行かなんだか知りませんが、とにかくあの白目。まずは見た目に気味が悪く、次にその「白目を出す」という態度に秘められた、裏返しの優越感みたいなのが感じられて、それがまた落ち着かないのです。ということで2重に気味が悪い。

 

そういう人はえてして、ほとんど全画像でそんなふうな顔で写ってなさる。白目の常態化。どうもご本人、得意気ですらあります。芸かなにかと勘違いなすってるのではないでしょうか?こうなってくると、それってなんなのですか?と思ってしまう。

 

写るのがハズいなら恥ずかしいなりの表情でうつむくとか、照れ隠しならもっとモジモジしたりとか、もっと写りようがあるでしょう。そんなに自分をさらけだしたくないのでしょうか?白目剥いてすっトボケてるのがクールなのでしょうか?撮影者に向かってまじめに取り組まない姿勢が、カッコいいのでしょうか?

 

そういうハスに構えた気分や、おちゃらけたい気になる時もあるのは分かるんで、1~2枚の白目なら許容もできますが、撮る写真、写る画像、全部白目でなくてもいいんじゃない?

 

そういう人の中には毎日のように自撮りアップする人もいるから、その人のTLは白目のオンパレードになっちゃってて。悪いけど見る気なくすんだよね。たかが白目なのにここまで攻撃するのも気が引けますが、せっかくだからこの記事では少しキツめに。少しだけ大事なポイントを含むと思うから。

 

大事なポイントとは、こういうのは男にしかない姿勢だって点にあります。あの白目は、旧来的な男らしさ要素の、表情における今世紀最後の砦、というか前世紀の残骸なんではないかという思いです。

 

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えーここからはしばし昔話になりますが、旧来的な「男」を象徴する表情といえば、思い出すのは「しかめっ面」。戦前から30年くらい前まで、ひとりで眉をひそめて深刻ぶり、世の苦悩をひとりで背負って暗~くウンウン唸ってるのが昭和な大人の男のたしなみだったんです(忘れたなんて言わさないんだからねっ!)。石原軍団とかスポ根アニメとかマンダム化粧品とか、テレビでも映画でもCMでも、男は全員イカめしい面だったし、口調も重々しく深刻だった。みんな三船敏郎とか高倉健みたいだったんです。

 

(いまの時代はこれがEXILEみたいないっけんコワモテの露悪趣味に変貌しましたが、根は一緒ですね。男の宿痾です)

 

*漢(ヲトコ)の体現者、石原裕次郎。これこれ、この表情ね。

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引用元:http://prcm.jp/album/6accbdb9fbc2/pic/23483144

 

昭和の当時は「ザ・商社」なんてドラマもヒットしたし、お話のスケールもナントカ一族の、時代を超えた壮大なドラマとか、その地に代々伝わるカントカにまつわるたたりとか、重厚長大なお話であればあるほど尊ばれてて、いかめしい表情のトレンドとしっかり一致してました。

 

虚構世界だけでなく現実の社会生活でも、その「大変そう」な表情ひとつで、かなりの程度までいけちゃう時代でしたね。当時子供だったけど、知ってます。

 

あの暑苦しさ、脂っぽさ、時代を支配した勿体ぶった重苦しい態度。タモリとか巨泉とか赤塚不二夫がそのすき間に軽~く入ってきて茶化しただけで、ひと財産つくれちゃうくらい巨大なムーブメント「しかめっ面」。

 

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んで、あの苦悶の表情はいったいなんだったのかというと、あれは人に見てもらうための演技であったことは、いまになってみれば明白であります。誰もいないところで、あの苦虫をかみつぶしたような表情をする男は、当時とて一人もいない。要するにかわいそうだと思ってもらいたかったわけです。かわいそうに思ってもらってなぐさめてほしかったわけです。つまり外見を重々しく取り繕うことは、重苦しい「かまってちゃん」の隠れアピールであり、見た目とは反対に中身がガキであることを白状してることと同じであったわけです。だから表情だけでなく態度も自閉的で、声をかけられてもなまくらな返事しかしないとか、面倒くさそうに声を荒げるなどの口調も多かったのです。しかし「大変だね」と素直に同調してあげればそれで解消という、実に楽チンな時代でもあったのです。値段のことばかり言う顧客に対して、値引きを提示すれば落着するようなものです。

 

こうした男傾向を80年代の到来と共に、軽薄短小の旗印の元に一掃した魔法のことばが「ダサい」や「シラケ」でした。変なガンバリズムはこれらの言葉で表面的には格下化され漂白化され骨抜きにされたようでしたが、実はそうではなかった。

 

そう、しかめっ面的価値観は雑草のようにしぶとく生きながらえ、なんと今世紀に入った今でも根強くはびこっています。男の価値観と密接に結びついてるわけですから当然ですね。シリアスな雰囲気が珍重される分野なんかは特にそうで、例えば政治や復興。麻生太郎あたりはその辺の表情を引きずってる最後の世代かと筆者には思われますね。選挙のときによく聞く「不退転の決意で」とか「わが命を賭す覚悟で」などと青筋立ててガナるのは、その価値観の言葉バージョンであります。中身?あるわけありませんポーズですから。そういうのに限って当選したってどうせいいかげんなのはもう分かっております。

 

さて、というわけで冒頭に掲げたスマホ撮影で白目を剥く行為にも同様に、いびつな自己愛をほんの少し感じる次第です。画像とはいえ心を映す窓たる瞳を見せまいとするその本意。それは「仕方なく画像に写ってあげてるけど、本当は写りたくない撮られたくない。ここにいるのは幽霊。ホンマもんの自分ではないのさ。こんなボクのマインドを分かってよ」という甘えと、閲覧者を拒むでもなく受け入れるでもない、かといって自分がおちゃらけに徹するワケでもない、そんなハンパな態度。それが白い目に込められたメッセージであり、どこか敗北的で言い訳じみています。反復されるのもそのメッセージ性の強さの証であり、軟弱な形に変貌はしてますが、昭和のしかめっ面と同じ系統のものに思えます。暗に認めて欲しい心理です。

 

写るなら写るで、堂々とした態度で写真に参加するのがいいと思いますが、そうでなかったら、撮影に参加するのをやめるか、撮ってもいいけどアップロードはやめませんか。白目のシェアならキモいだけです。

 

当事者以外の目に映る被害者面は、常にこっけいでしかないのをお忘れなく。

 

<了>