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日ペンの美子ちゃんにおける数々の優れたマーケティングの手法を解明したら、近代的自我の呪縛という不幸の構図があぶりだされてきたから報告します。

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1代目美子ちゃん。画:矢吹れい子(中山星香) 1972年~1984年の間掲載とのこと。引用元http://blog.livedoor.jp/textsite/archives/54987973.html

 

 日ペンの美子ちゃん現象を振り返る ~コンプレックスからニーズを掘り出して商売する手法~ おもしろうてやがて悲しき美子ちゃん

 

突然ですが昔いたるところで「日ペンの美子ちゃん」(にっペンのみこちゃん)なるマンガを見かけたものでしたが、あれはいったい何だったのか(いまでも存続してるそうでありますが)、これは70~90年代のユースカルチャーを考える上で、言うまでもなく大問題であります。

 

そこで日ペンなどやったこともないが美子ちゃんに対しては中学生時代に惚れた(笑)過去をもつ不肖私メが、この「日ペンの美子ちゃん」現象(?)に関し、以下に論じました。さてそこで見えてきた大テーゼ、それは「日ペンの美子ちゃんは現代日本のひずみそのものである」という深遠なものでありました。

 

どういうことでしょうか?以下順を追って論じてみましょう。

 

 

第一部:宣伝ガールとしての美子

■女の子が登場するマンガのヴィジュアルで、一瞬にして読者の心を奪う

 

■マンガの導入部から必然性なく肉筆の重要性に切り込んでいく

 

■そして聞かれてもいないのに美しい字の尊さを説く

 

■しかも相手がいない独りごとの時もあり、その際は読者に目線を送ってる

 

■下手な字は悪であるという価値観を提示し読者を誘導し、ストーリー性で共感を深める手法を執拗に繰り返す。しかし前提としては読者は字がヘタっぴぃだとあらかじめ措定してから話を始めており、この点が不遜である。

 

 

第二部:より踏み込んだときの美子は一流のセールスレディと化す

■「一日たったの20分」を必ず言う。そこには20分で済むからやらない方がおかしいとの脅迫的含みが感じられる。

 

■「1級合格者の4割は日ペン出身」「指導ウン十年」(たぶんもうすぐ100年!)などの指標を織り交ぜ、その点はマーケティングの鉄則に忠実であるが、その指標の裏づけは読者に一任されている。

 

■「超一流の先生方」による「丁寧な添削」があり、バインダー式テキストも使いやすいと毎回連呼するが、マンガ上での主観評価であり、実態は受講するまで分からない。

 

■しかもそこら辺になると美子でなく、いつのまにかそこにいる猫やウサギが解説する場合も。美子よ、それでは怠慢ではないのか。

 

■顔面ローラーみたいなのが2つ付いた、指先を鍛える新案グッズがかつてあった

 

■ハガキを付け、点線で切り取れるようにし、切手も不要と、商談のクロージングまで至れり尽くせりの素材を準備して雑誌に掲載されていた(ような気がする)

 

 

第三部:マンガ表現の可能性に挑んだ美子

■マンガとしては、主人公の美子ちゃんを主に恋愛場面において報われないオチやドジにおとしいれ、最終的に自虐で共感を得る展開が多い。

 

■しかし美子ちゃん自身は並み居る恋敵より圧倒的にすごい美少女であって、あれなら字が多少下手でもモテまくるはずだがそこに疑念は抱かせないようになっている。

 

 

第四部:美子の限界をみた

■ホレボレするようなきれいな字を書く人は、確かに人格まで高潔に見えるがそれは幻想であり、最終的に文は内容である。マナーとして、たしなみとして、美しい字は気持ちがいいし円滑であるが、同時に手段にすぎないものである。

 

■また、美しい字を書きたいと思ったら、規範は自分で探し、自分で自分の悪筆を見つめる以外に、克服する方法はない。外部に頼ればそれだけで美しい字が手に入るという考えでは、文字以外の人生の充実はおぼつかない。そこにいっさい言及も自省もない美子が、70年代初頭から実に40年以上もの長きに渡り、字がきれいなだけで恋愛等で失敗を重ねているのは、その意味で自明の理であり、この自明の理に大事なポイントが隠されている。

 

■美しい文字は、手先の器用さが保証するものかもしれないが、実人生の成功は必ずしも約束しない。キレイな字を目指したところで、まず最初に、本当に達筆になれるかどうかは怪しい上、もしそうなっても、今度は一番肝心な人生が、文字ごときでは左右されない頑強なもので、実際なるようにしかならない。そのことを漫画内で誰よりも美子自身が、オチで立証し続けているというこのパラドックス。これはすなわち、日ペンによる日ペンの自己否定である。もし宣伝の本質における論理的帰結に従うのなら、美子は毎回その美しい筆致によってのみ、汚い字のライバルに勝利し続けなくてはいけない(追記:そういう回もあったような記憶もあるが、それはごく少ない展開であった)

その本来の形式の場合、マンガの要求するオチは、別の箇所で創出せなばならない。もしくは落ちのないマンガとなろう。

このように周到に見ていくと、商売の論理は広告の話法で破綻することがあるのだと分かる。つまり誰も気づかぬうちに宣伝が商品を裏切る、ってことがありうるのである。

 

■「日ペンの美子ちゃん」。彼女は広告という制度への無自覚でお茶目な批判者であった。対する広告主(=日ペン)側は、オチを付けねば落着とは見なさないマンガの本質部分をスルーし、おそらくは分かりやすさという指標のみに着目してマンガを宣伝手段に用いて、結果上記のように破綻し続けてきた。はじめから失敗しているその姿は、無自覚なだけに無残である。飼い犬に手をかまれてかつ気づかない。

 

■美子は上記の錯誤によって広告主だけでなく、漫画家自身も、読者も、媒体掲載者も、すなわち関係者全員を、長年に渡って無言で欺き続けてきた。かわいい顔でドジを踏む、きれいな文字の美少女は、広告の向こう側から「キレイな文字なんて、最終的には何の役にも立ちゃしないのよ」と、怨嗟を唱え続けてきたのである。ここで根底から問われてるのは、文字のきれいさへの固執を「必要」と思い込ませ、それを商いにするという、現代社会の基本姿勢である。日ペンは、単にその一部にすぎない。

 

 

第五部:ときの流れと共に変わる美子を、別の角度から見てみる(いまはウェブ上でしか連載してないんだと)

■表面的なことを言えば美子は5世代のキャラ変遷があり、顔も花とゆめみたいなのから、露骨にアニメフェイスだったり、オタクの人気アイドルになってみたり、時代のトレンドに合わせていろいろである。

 

■外見だけでなく、美子の宣伝スキルといった内面も変化している。現代はいうまでもなくテキストタイピングの時代であり、SNSの時代でもある。

 

■そんな現代においても肉筆の美しさと手紙という手段こそが、至上のコミュニケーションツールであることを、ストーリー上1コマ以内程度で簡潔に説明することが、現代におけるWeb上の美子にはどうしても必要である。

 

■したがって最近の美子は忙しい。それは伝統の定型9コマ内で「心のこもった肉筆」の優位性を説得するためセリフ量が増えたからであり、しかもその制限内で、実らないことになってる恋愛をきちんと(いつものように)「実らせない」ため、展開を性急にせざるを得なくなったからである。

 

■日ペンのスポークス・ウーマンに専念してればよかった時代はとうに過ぎ、書き文字の審美性や手紙の重要性まで解説する任を自然と背負わされた近年の美子は、大変な労働量をこなすスーパーウーマンであらねばやっていけない。70年代の美子は牧歌的余裕の中で青春とペン字をあれだけ謳歌していたのに、今ではあらかじめ決められた形式、制限枠のなかで、自分のせいではない複数の説明責任に耐え、己の人間性を希釈し、窮屈さへの隷属をしいられている。ああなんという強制的な残酷社会であろう。あれでは忙しすぎて子育てはおろか出産や結婚、いや恋愛すらも危ぶまれるではないか。それどころかうつ病などにも気をつけねばなるまい。

 

■現代に生きる日ペンの美子ちゃん。それは社会の成立基盤が処理不能なほど多様化し、無用な情報ばかりが増え、他律的な素因によって発生した見えない何かにあやつられながら日々疲弊する、われわれ現代人の姿そのものなのである。

 

 

結論

日ペンの美子ちゃんとは、自分が広告でありながらも自身が不毛な商業への無自覚な批判者である。また同時に近代に確立された商業宣伝手法の、洗練された系統そのものでもある。これは基本的に情弱に対する自作自演であり、素朴さの面をかぶった狡猾であり、ブリっ子(死語)、カマトト(もっと死語)と同義である。さらに申すなら、いわゆる"ステマ"への、これは道程なのである。そしてその道程自体が、他ならぬ自分自身をも呪縛してる倒錯である点で、美子はわれわれ現代人を照射する鏡なのだ。そう美子とは、人間性への警鐘なのである。

 

最後に言っておくが、これは大マジな指摘である(笑)

 

なお、本記事を書いたあと、もっとうまく書けてるブログを見つけてしまった…orz

blog.livedoor.jp

<了>