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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



なぜ「チコちゃんに叱られる!」はおもしろいのか?それは…(デデン♪)「抜け殻をメディアにした成功例」だからであ~る。

www4.nhk.or.jp

 

NHKの雑学バラエティー「チコちゃんに叱られる!」がおもしろい。

 

最初は例の「ぼーっと生きてんじゃねぇよ」に、乱暴な言葉だなと少なからず違和感を抱いていたのだが、毎週見てるうちに違和感は薄らいで、雑学とは、日常を見つめるきっかけになるコンテンツだなと思うようになった。

 

言うまでもなく、日常を見つめなおすことは、生きること、学ぶことと同義である。昆虫がいて空気があって作物が育つ、そうしたなんでもないことは、これすべて宇宙と同じ神秘である。そんな、超土台にある大事なことにも気づかず、やれ仮想通貨の次のトレンドはなにかとか、サロンはオワコンとかいってる日本人の、なんと多いことか。まさにぼーっと「生きて」んじゃねぇよ、である。

 

ほんであの番組の、何より僕のお気に入りな点は、権威にツッコミを入れるという皮肉が、演出ににじみ出てる点だ。

 

たとえばお題の回答には毎度解説者が出てくる。市井の人に毛が生えた程度の専門家もいれば、ナントカ大学のナントカ教授などという本格的(?)な人も出てくるが、いづれの場合も、解説者が専門バカみたいなやたら袋小路な回答に陥ったりすると、画面をフェードアウトさせて切り捨ててしまう。

 

人によってはあまりにバッサリ切り過ぎて、失礼になったりしないかとハラハラさせられるほどだ。そのくらい皮肉が効いている。

 

専門家の扱い以外においても、笑える各種演出の背後には、制作陣の底意地の悪さを感じる。一言でいうと、素材主義というか。つまり芸能人でも何でも、被写体から物語性や人格をはく奪してしまって、最もウケる・使える部分だけを抽出した記号に貶めてしまおう、という性格の悪さが見える。もともとお笑いとは毒を含むものではあるが、単に雑学の知識をおひろめするだけの番組なら、ためしてガッテンみたいにもったいぶることはあっても、こうした構成・演出にはするまい。

 

デビッドボウイがアイドルだったらしい、NHK職員(森田美由紀さん)の冷温ナレーション。あの、公的さを装って淡々としながら、実は言ってることは変という演出や、専門家に話を聞きに行く際の、ハンディカメラ姿ですたすた歩くスタッフを引き絵で捉えた身もふたもない扱いにも、上に書いたいたような「毒」が、セルフパロディーのカタチで浮き出てるような気がする。

 

民衆は権威者の話をありがたく受動的に受け取るのみ、という図式は、ご存知のようにインターネットの普及によりご破算となった。すでに教育の現場では先生よりも生徒や児童の方がいろんなことに詳しいし、災害時などにおける政府やNHKからの大本営発表よりも、twitterやLINEでのやりとりの方がリアルですばやく、共有も瞬時に可能だ。情報は人が起点なのだから、あたりまえの伝達変化である。チコちゃんの背景にはそうした「情報は、すべて並列にして水平」という時代が横たわってる。

 

また「権威者の話をありがたく受動的に受け取る」層がいて成り立つのは、何を隠そうテレビ界が立脚してきた価値観もそうである。だから、こういう多階層にヒネた番組を作るとなると、なかなかしんどく、にがいだろう。にがいから、いきおいセルフパロディでもしてニガ味をにじませないことにはやっていけない。それを視聴者にそこはかとなく伝えるための調節が、チコというエアー人形・偶像の役割である。NHKは昔から人形劇が好きだが、あのCGとボイスチェンジャー声は、今の時代の人形、つまり抜け殻をメディア(媒体)にしてなにかを語らせるという、正しい「人形劇」である。

 

世の森羅万象に勝手に尺度を当てはめたり、ネーミングしたりレッテルを貼ったりして、分かったことにしてしまってる近代の研究や制度や知性とは、これすべてスカである。さらに滑稽なのは、すでにある「スカ」を仕入れるだけとか、順列組み換えするのが本当の学問などと思ってるおめでたい専門家である。そうした世にあふれる人為的浅はかさと、根源的な命や環境の生理現象がもつシリアスさとの、本来はあるはずもないあつれきやギャップ。あの番組はそこを茶化すのだ。人形とかタレントとか、いろんな媒体を素材のまま使い捨てながら。

 

ぼくらはなんにもわかっていないだろ?だから人は根深く不幸なんじゃないのか。トランプも習近平も、宇宙軍とか言ってないでチコちゃんに叱られちゃいなさい。我らが安部ちゃんもね。

 

<了>

 

 

「AKIRA」とは何だったのか

■破滅への序曲その1(*ネタばれ注意)

 

「根津がアキラ暗殺を狙ったとき使ったピストルは、どうして前世紀の遺物だったのか」

(根津とは、暗殺者の老人キャラ名です)

根津が使った銃はレミントン・ダブルデリンジャーという恐らくは1900年代前半のクラシカルな実在ピストルで、作中で描かれたとおり、手のひらにすっぽり収まるサイズである。


護身用として設計され、弾は2発しか込められず、射撃器具としては明らかに心もとない。


これで根津はアキラを狙って、おそらくは30mほどの距離から発砲した。


その直前のシークエンスで根津は1発発射してるので残弾は1発のみ。予備弾も不携帯だろう。
しかもこの老体は負傷の身であって、あれはまさに、乾坤一擲を狙ったわけだ。

 

無謀である。

 

同様の拳銃使用による、現実の暗殺を考えてみよう。


1865年のリンカーン大統領の暗殺や、1914年のサラエボ事件(オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻暗殺事件で、第一次世界大戦勃発のきっかけ)である。

 

いづれの暗殺者も至近距離、そう、殺す相手の息遣いまで聞こえるような距離まで近接して撃たれた。銃の性能がプリミティブでもあった時代だったろうから、殺害もほとんどナイフ使いのような感じだ。

 

この粗暴さは身の毛もよだつほどであり、いつの時代も暗殺という究極の状況は、錆びたのこぎりで首を少しづつ引いていく戦国時代の処刑のような、おそるべき残虐性を、暗殺実行者に要求する(はずだ)。

 

はずだ、と書いたのは、そうでない現象が今ではあるからで、それは例えばモニター越しの無人空爆や、スコープから覗いて後ろから撃つ狙撃者など、兵器の高度化(誰にも裁かれず、むしろ推奨される恐るべき進歩)に伴ったTV戦争の様子であり、撃たれた方の血も見えず、悲鳴も聞き取れず、掃き掃除のようにスマートに、一連の殺人はサッサと処理される兵隊のサラリーパーソン化や、友軍の人命を優先し、かつ破壊効率も重視した果ての「殺人任務の作業化」が、現代殺戮の現場である。

 

他方、その現代兵器の標的となる側のテロリストが使用する一般兵器は、その多くが長年の定評からすれば優秀であるらしいがやはり旧式であり、アナログであり、現代ハイテク装備とはまるで反対に、戦闘員の少なからぬ犠牲を前提にしている。


その究極が自爆作戦だろう。

 

この犠牲の象徴、まさに窮鼠猫を噛むの図式どおりのゲリラの具現こそが、根津の旧式拳銃に集約されていたのだった。

 

根津は悲惨であり道化である。ミヤコのバックアップがあったとてそれは冷淡なものであり、自前の武装組織を有していても一枚岩でなく、特に人望もなく外見もネズミ男のように醜く、根津は孤独な存在であった。

 

だから根津は博物館クラスのオールドスタイルな「ゴミみたいなテッポウ」で、たったひとりで老体にムチ打って、みずから木造アパートのスキマから撃つしかなかった。


物語が、この図式を、この武器を、要請した。

 

根津はその挙句、誤射した。本当は何を撃つべきだったのかにはついぞ盲目のまま絶命した。自分の射撃の結果、すなわち東京の2度目の崩壊をも、見届けることなく。

 

旧式拳銃のイチトリガーで、その後の数え切れない扼災の引き金を引いてしまったこの皮肉は、AKIRA全編の世界観の底流となる視線である。

 

物語後半にも、これに酷似したゴミテッポウ(SOL起動装置)が出てくるが、これも小さな災いを引き起こした。ここにも作者大友の「視線」が読み取れるだろう。つまり、火器や、それに類した武器を使う旧人類への下等的あわれみの視線である。

 

根津。それはあわれな中間権威者であり、近代の歴史における暗殺者の暗喩であり、かつまた、あとは野となれ山となれの象徴であった。

 

そしてもうひとつのif。もし根津が、アキラをしっかり射殺できていたら、どうなったか・・・?

 

<「破滅への序曲その1」・・・了>

柿食えば、腹が減るなり法隆寺。

バランスのいい食事をしなさいなんて盛んにいわれるけど、そんな栄養満点の食事、この数十年を除いては、人類はできたためしがないんじゃないだろうか。

 

農耕をやってれば、ある年のある時期には、採れるのはキャベツばかりとか、逆に大根が不作で壊滅状態だった、なんてことの方が普通で、他の人の作物と交換しながら、なんとか食材のバリエーションを増やしていたってのが昔の人の常態だったろう。

 

耕作だけでなく食品の保存方法だって未発達だったから、バランスのいい食事なんて考えてこともなかったに違いない。野菜は塩漬けにする程度の保存しか、長いことできなかったし、漁師にとって魚介類の大漁は、自分たちの胃袋以上のそれには(あんまり)意味がなかった。

 

そもそも、1日に3度食事を摂取できる時代が到来するなんて、人類史上つい最近の、革命的出来事だったはず。たとえようもないほどの空腹・飢餓との連日終わりなき抗争が、人の歴史の本体だ。

 

ただひとつの例外は戦争。国土を賭けた総力戦としての戦争は、この、人間本来(?)の歴史をすぐに目覚めさせる。太平洋戦争、戦場の兵隊はもちろんのこと銃後の市民も、とくに戦争後半は、くだらないことをやってるヒマはなかったろう。

 

ぼくは自分だけ健康になる式の、お手軽なサプリメントを、理解はするが支持も実践もしない。どうも信じられない。なぜかというと、わかりやすさや善良の陰に潜むいびつさは、静かに人をむしばんでゆく、という直感があるもので。ヘルシーなんて、なんも考えてない人が発する戯れ言じゃないか。「健康のためなら死んでもいい」なんてジョークがあるけど、このおかしさは、こうした心理を皮肉にうまく言い当てたものだと思う。

 

食との向かい方で理想に思う態度は、仕事やなにかに集中してて、ふと空腹に気付いた時、ファーストフードやインスタント食品を10分ほどでガっついて、また仕事に戻る、というものだ。ジャンクフードは時代の産物、つまり人の営為の現れなのだから、むしろそいつにどっぷり漬かりたい。漬かりながら、健康を意識しない健康、健康そのものがそっちのけな態度、目的のためだけにまっすぐわき見もしない姿勢を堅持したい。この身体ひとつが自分にいま、備わってればいいという、ある種ぶっきらぼうな姿勢が、明日をはぐくむ、と思う。

 

長距離運転をしてると眠くはなるが、案外腹は空かない。それは体を動かしてないという理由もあろうが、目の前に集中しながら頭の中ではいろいろ考えてたりして、自分そのものが運動体になっているからだ。車なんて人にとっては道具に過ぎないが、こういう役立て方もあるのだ。

 

運動するんじゃなく、自分が運動そのものになる、という現象。逆説的だがこの実践が長生きのいちばんの方策だね。空腹の概念がなくなるまで自分を希薄化していく、これが古来からの飢餓への知恵じゃないかな。栄養なんて、口に入ればなんでもいいよ。自分の身体は自動的に自分のもの、などと思いあがってると、身体に復讐されるね。

 

<了>

 

 

 

 

感情はクラウド(雲)

感情は雲みたいなもの

 

つねに上空を漂ってるかと思えば、見当たらない時もあり、突然大挙して押し寄せるときもある

 

その動きは予測できない

 

また、まっ白で美しく穏やかな雲も、真っ黒でオドロオドロしいウツな雲も、ともに雲であることに変わりはない

 

消し飛んでしまえば青い空が広がってるだけ

 

世の中は雲だけを観察して、形状や大きさや雨雲なのかそうでないのかと、論評することばかり

 

でも雲なんざ目くらまし

 

ベースの青い空を見つめるのが本スジじゃあないのかね

 

<了>