お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



英語は対話者に向いてるようで向いてない。いっぽう日本語は対話の当事者同士を越え、普遍を目指す言葉だ。

Didn't you go to that place yesterday?

A)No,Ididn't.

B)Yes,I didn't.

 

当然答えはAである。しかし日本語訳だとBである。

 

この正反対の隔たりは、英語と日本語の隔たりそのものだ。

 

Noを遣うときの英語話者は、あくまでも否定や無を指示するのみである。それは問いかけに対して限定された否定であって、広がりもなく一方的に終わる。「ないものはナイ」と、対話を話者の中にのみ封じ込め、冷たく閉じる。

 

対して日本語は、いったん対話者に沿い疑問文脈に則って肯定し、そのあと事実に即して否定する。こうした二段階承認の中に、次の会話転移への期待・猶予がある。含みがあってぬくもりがある。

 

つまり、「No」と「いいえ」は違う。正確に言うと、文脈の中で機能する機序が違う。あくまで「ないものはない」で終わるだけの英語世界観と、「ないとされてる中にも、もしかしてあるかもしれないじゃん。少なくとも、あなた(対話者)は目の前に居てくれるじゃん」と、会話対象を大きく切り取り余白を持たせる日本語。同じ否定し終わった後に提示される地平は、英語よりも日本語表現の方がはるかに豊潤だ。余白は全部ムダなものでしかないと切り詰める英語のテキスト文化と、余白もコンテンツの一部として、ブログの一行空け改行などに大きな意味を見出す日本語。

 

俳句を英訳すると、途端に味気なくなるのは、こうした違いによる。

 

<了>

羽生結弦がオジサンになっても。

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中学生~高校生にかけて、デビューするアイドルがどんどん自分より歳下になっていく時期があったが、あれはじつに不愉快であった。年下の娘がまたひとり芸能界に登場する度に、「お前はジジイになっていく」と言われてるような気がしたものだ。

 

そのころのオレの命題は「若手の台頭を阻止する」であり、身の周りの後輩たちにいろいろ陰湿なことを押し付けるのが日課であった。年下どもをつぶしたりひねったりふんづけたりして、才能の萌芽を摘み取るのは望外(妨害)の喜びだった。


子供を見ても、こいつもそのうち色んな面で自分を追い越すんだとしか思えず、弱い今しかイジメるチャンスはないとばかりいじめておった。で、大人になっても報復されてないから、弱いもの幼きものはイジれるうちにイジっておかないと。


また一方で、年上のアイドルなどに対しては、年齢的優越感を感じることも生きがいとしていた。オレの方が若いもんね~、と。


いまはオレも49歳になり、もう10年くらい前から今度は経営者やCEO、教授や医師などが、自分より年下になってきた。

 

つまり、社会的ステータスのある人たちが今度は相手となった。一方コチラは、何もない無産階級である。

 

この相手たちは、今からじゃもう絶対に阻止などできないし、イジることなんか論外である。自分だけがムダに年喰ってきた感、ハンパない。いままでお前は何してきたんだ?という諦念と、かすかな焦り。これに直面させられるのが何より面白くない。でも今はネットがあるから陰険に憂さを晴らしてやれる。いい時代になったものだ。

 

さて、こないだ仙台でパレードした羽生結弦。

 

あの全方位にナイスなパーフェクト・ガイ。


性格・言動・実績・立ち振る舞いと、すべて完璧。


最近は精悍さも増して風格も出てきた。余裕が感じられるのも憎たらしいポイントだ。


そしてあの小顔スタイルにキラースマイル、美肌で歯並びもいい。たぶん金も持ってるし頭もいい。非の打ちどころのない、まさしく王子様、キラキラのプリンス。


あれで23歳だなんてと思うと打ちのめされる。自分が同じ23歳だった時を思い出すと、さらに不愉快さがつのってワヤだ。あの祝賀パレード、無視しようとしたけど無視できなくて、パレードの中継を全部見て、翌日のワイドショーまで観てしまった。


もうまったく、世の中ぜんぶ気に入らんわ。人間世界から年齢とか若さなんてなくなりゃいいのに。優秀なのも含めぜんぶ呪おう、そうだそうだそうしよう。

しかしたまに書くブログがこんなんでいいのだろうか。

<了>