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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



「ムリ」という言葉にひそむ甘えについて~「ムリ」はおまえの拒否責任をなくすために開発された用語ではない~

「ムリ」という言葉が、相手との会話の中でよく遣われるようになって久しい。

 

例1)俺と付き合ってくれない?

はぁ?無理なんですけど

例2)これ夕方までにやっといてくんない?

ムリだから。ぜってームリ


ムリ…まったく気に入らない拒否表現だ。この言葉を投げつけられた方は結構しんどいぜ。拒否されたからしんどいってのも少しあるけど、「ムリ」って用語はこれから書くように卑怯な言葉遣いだから、その分こちらの消耗度も倍増する。


人によっては「無理無理無理」と連発し、そういうのに限ってヒステリックにわめきたててまことに見苦しい。

 

「ムリ!」とこれみよがしに叫ぶヤツは例外なくあさましい。自分の都合だけで相手が見えていないからだ。それでいて、いやだからこそのネガティヴ・アピール。わがままな他者不在、その粗暴な押し付けである。

 

自分でできない、あるいは積極的にはしたくない行為があるとしたら、それは正直に「できない」「したくない」と、己の責任に紐づけて粛々と正確に表現すべきである。

 

こうしたシンプルな言葉には、自分の責任において不可能への免罪符をしょい込む主体性がある。ダメならダメで、そのダメさをきちんと位置づけて、責を引き受ける度量がある。言葉と自己の焦点が、同時的にピタリ一致している。

 

ところが、昨今の「ムリ」に内包される意味は正反対である。

 

この「ムリ」は、できない/しない根本理由を、ありもしない自分以外の要因に放り投げて知らんぷりするような大人げない表現である。それは無責任、甘え、卑怯さの発露でしかない。


すなわちイマドキの「ムリ」は幼児語である。未熟な気分をひたすら社会に相手に押し付けて、垂れ流しつづける公害ワードだ。

 

本来的ムリとは、別のところにある人物や事象が、不可抗力的にお前に強いている、その状況下においてのみ遣う。だからムリは、本来受け身で純粋で客観的な言葉だし、超克や飛躍の踏み台にもなりうる(例:自分に無理を加えていって成長する等)

 

ところが外部からの課題に「ムリ!」と、鬼の首でも取ったかのように騒ぐヤツは、その透明なムリという言葉を主情的に勝手に拝借してきて省みもしない手合いだ。ムリの価値観の尻馬に乗って、功利的に「ムリムリ!」と乱用しているだけだ。まったく勘違いも甚だしい。

 

「ムリ」は、お前の拒否責任を無化するために開発された単語ではない。ただ不能状態を描写するだけの、控えめで謙虚な言葉だ。たいていのことはやりゃ出来んだよ愚か者どもが、何が「ムリ」じゃ。やらない言い訳くらいは自分で編み出して引き受けてみろ。ムリと叫ぶことによって簡単に壁を作って許してもらおうとすんな。お前がそれをしないだけであって、その「やらないこと」には、本来の無理が意味する公理性も客観性も含まれていない。かってに外部に委託するな。

 

前も書いたが、言葉には自分の内面に対して折りたたむように使用するものと、公的に外的に表現するためのことばと、2種類あるんだ。ムリは前者である。

 

お前がそれをやるにせよやらないにせよ、おのれの自発性を封印するための「ムリ」をカンタンに言い放ってしまっては、その安易さは他ならぬお前の目を、かならず曇らせる。

 

お前自身がお前の正義に関し盲目となり貧しくなる。つまりそれはお前が自身を貫けなくなることだ。

 

自分の行為に関してはムリって言葉を追放せよ。それは外部への甘えだ。周りで当たり前に使われる表現だからって簡単に採用するな。言葉のひずんだ運用は、使う人に復讐をする。


言葉は誰に対しての表現なのか、その方向性をわきまえて正確に遣いなさい。でないと自分にムリがくる。

 

もっともそれでもなおムリが自覚できない自分なら、閉じすぎてて救いようがないが。

 

<了>

きたない世界とみにくい人々について

ホントに「醜い人」などいないのじゃ。

世の中は人々の優れた美しさや明るさで満ち満ちておる。

たいていは気づいてないだけ。

そこを示唆するのが例えばホントの教育。

 

今の世は、なんでもかんでも自己肯定感をアゲる方向ばっかり称揚されてるが(「人生を楽しむ」とか)、実は否定から生まれる肯定でないと意味ないのよね。

 

ただただ肯定してる人生では、腐敗してくだけよん、魂が。

 

ボロカスに否定されてから、目覚めて模索していく。ここからが本当の勝負。他人と競い合ったり奪い合ったりする勝負でないのがホンモノの勝負。勝つことに価値があるとすれば、人はこの勝負ごとだけに真剣に取り組むべきだ。他のことはみんな「負け」たって全然かまわない。

 

逆に言い換えると、最初から「勝ってる」様態なのが人の本性。負けることなどできない仕組みなのが魂。

 

だから「ホントに「醜い人」などいない」と言えるのじゃ。

 

<了>

晴れ着をレンタルで済ます心理は醜い

成人の日とは、エエかっこしいどもがエエとこ取りの態度を、公に集団で認めるという、実に愚かしい日である

 

もう過ぎた話だが成人式のお話。成人式なるマカ不思議なものがこの国でまかり通って何十年になる。
セレモニーとして完全に定着してるがまったく理解不能な行事だ。

 

中でも、晴れ着をレンタルする行為が不快である。

 

ハレの日というものがまずあるとして、そこで着る衣装を自腹で調達するでなく、レンタルで済まそうとするのは良くない横着である。そこに自分で気づかないのだろうか。

 

大事なものなら、それなりの対価や努力を要求されるのは、世のスジである。いろんな事情はあろうが、衣装の用意などはおおよそ単にカネの多寡問題でしかない。

 

そこを「お手軽に」「合理的に」飛び越えてしまっては、大事な何かを無反省なまま置き去りにしている。横着に流され、自分律がない。まぁ成人式に出るってことと、衣装をレンタルで済ますのは、受動的という同質の価値観であるのだから、言っても仕方がないが。

 

でもさ、この種の反省のなさは、必ず詐欺のターゲットになる。それも騙された実感のしない、高度で破滅的なサギの標的になるよ。

 

またもっと根本には、成人式という制度側からのお祝いなど、なんの意味もないってこともある。祝福も感動もすべて、みずからが単独で、時にはもがきながら内面から生みだすものに決まってる。

 

だいたい「成人」ってなんだ?それは祝うに値するモノなのか?

 

成人式など下らぬ自慰ショーに過ぎないが、それでもわたしがかろうじて認められる態度は次にあげるようなものだ。

 

ホントの成人なら「成人式」への自分なりの見識をまずは確立してそれに従い、また晴れ着に価値を見出すのならそれはそれでいいからそれを貫き、きちんと計画的に振袖を購入するよう、自分のお金を使って手配準備するのでないか?ホントの成人なら。


たとえそれが一度しか着ず、またどんなに高価なものであったとしても、自分の考慮を経たうえでならOKだ。


もしくは晴れ着も買わないし、成人式にも出ない、という態度なのではないか。

 

いまはそんな態度は主流ではない。いまの風潮は(というかセージンシキなるものが着想された当初から)、晴れ着は着たいけど1度でイイわけだから貸衣装で済まし、行政がおぜん立てしてくれた式にお呼ばれ立場で自動的に出席し、写真撮って周囲にチヤホヤ祝ってもらって大人になった気分でいるって態度だ。最初から成人式で祝ってもらおうっていう前提や、セレモニーに晴れ着はつきものって思考停止では、ぜんぜんダメだよ。

 

だから成人式とは、日本人のダメさのすべてが、この日から仕切り直しで再スタートするような愚劣記念日である。
自分さえよければ、その時さえよければ、っていうエエとこ取りのエエかっこしいを、公に集団で認める卑怯な日である。だから時たま、勘違いした馬鹿どもがハネ返って跋扈するんだ。こんなの支離滅裂で醜悪極まりない態度だ。自分しか持ってないものを後生大事に確認してたって仕方がない。

 

こうして自省する知性なくしては、成人もへったくれもないじゃないの。

 

今回、横浜の「はれのひ」社長に対し、「思い出と時間を返してほしい」などと訴える被害者のお嬢さんは、購買だったにせよレンタルだったにせよ、なにか大きな勘違いをしている。確かにあの社長は悪い、悪いのだが上にも書いたように、そんなことで棄損さるる程度の自分だと、これからも、何回でもサギに遭うだろう。またついには自分自身をも欺くだろう。自分は自動的に自分なのでない。自分自身に出会ったり、向かい合ったりする回路を経なければ、何者でもない。

 

分かったかな?新成人ちゃん

 

<了>