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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



晴れ着をレンタルで済ます心理は醜い

成人の日とは、エエかっこしいどもがエエとこ取りの態度を、公に集団で認めるという、実に愚かしい日である

 

もう過ぎた話だが成人式のお話。成人式なるマカ不思議なものがこの国でまかり通って何十年になる。
セレモニーとして完全に定着してるがまったく理解不能な行事だ。

 

中でも、晴れ着をレンタルする行為が不快である。

 

ハレの日というものがまずあるとして、そこで着る衣装を自腹で調達するでなく、レンタルで済まそうとするのは良くない横着である。そこに自分で気づかないのだろうか。

 

大事なものなら、それなりの対価や努力を要求されるのは、世のスジである。いろんな事情はあろうが、衣装の用意などはおおよそ単にカネの多寡問題でしかない。

 

そこを「お手軽に」「合理的に」飛び越えてしまっては、大事な何かを無反省なまま置き去りにしている。横着に流され、自分律がない。まぁ成人式に出るってことと、衣装をレンタルで済ますのは、受動的という同質の価値観であるのだから、言っても仕方がないが。

 

でもさ、この種の反省のなさは、必ず詐欺のターゲットになる。それも騙された実感のしない、高度で破滅的なサギの標的になるよ。

 

またもっと根本には、成人式という制度側からのお祝いなど、なんの意味もないってこともある。祝福も感動もすべて、みずからが単独で、時にはもがきながら内面から生みだすものに決まってる。

 

だいたい「成人」ってなんだ?それは祝うに値するモノなのか?

 

成人式など下らぬ自慰ショーに過ぎないが、それでもわたしがかろうじて認められる態度は次にあげるようなものだ。

 

ホントの成人なら「成人式」への自分なりの見識をまずは確立してそれに従い、また晴れ着に価値を見出すのならそれはそれでいいからそれを貫き、きちんと計画的に振袖を購入するよう、自分のお金を使って手配準備するのでないか?ホントの成人なら。


たとえそれが一度しか着ず、またどんなに高価なものであったとしても、自分の考慮を経たうえでならOKだ。


もしくは晴れ着も買わないし、成人式にも出ない、という態度なのではないか。

 

いまはそんな態度は主流ではない。いまの風潮は(というかセージンシキなるものが着想された当初から)、晴れ着は着たいけど1度でイイわけだから貸衣装で済まし、行政がおぜん立てしてくれた式にお呼ばれ立場で自動的に出席し、写真撮って周囲にチヤホヤ祝ってもらって大人になった気分でいるって態度だ。最初から成人式で祝ってもらおうっていう前提や、セレモニーに晴れ着はつきものって思考停止では、ぜんぜんダメだよ。

 

だから成人式とは、日本人のダメさのすべてが、この日から仕切り直しで再スタートするような愚劣記念日である。
自分さえよければ、その時さえよければ、っていうエエとこ取りのエエかっこしいを、公に集団で認める卑怯な日である。だから時たま、勘違いした馬鹿どもがハネ返って跋扈するんだ。こんなの支離滅裂で醜悪極まりない態度だ。自分しか持ってないものを後生大事に確認してたって仕方がない。

 

こうして自省する知性なくしては、成人もへったくれもないじゃないの。

 

今回、横浜の「はれのひ」社長に対し、「思い出と時間を返してほしい」などと訴える被害者のお嬢さんは、購買だったにせよレンタルだったにせよ、なにか大きな勘違いをしている。確かにあの社長は悪い、悪いのだが上にも書いたように、そんなことで棄損さるる程度の自分だと、これからも、何回でもサギに遭うだろう。またついには自分自身をも欺くだろう。自分は自動的に自分なのでない。自分自身に出会ったり、向かい合ったりする回路を経なければ、何者でもない。

 

分かったかな?新成人ちゃん

 

<了>

「生きてるだけでめっけもん」

生き方も顔も何もいいとおもえないある芸人の言葉で、たったひとつ内実を感じた、しっかりした言葉がある、それは、

 

「生きてるだけでめっけもん」というやつだ。

 

そう、生きてるだけでひとはすべて尊い。と同時にみんな醜い。その点では真理は実に公平にできている。

 

世間では他人を評して一流とか三流とか平気でよく言うが、そうやってひとの属性を測ることは、すでに醜さの露呈である。それは底辺層である、精神的な。

 

お前はどうなんだお前は。

 

ひとはみな粛々淡々と生活を積み重ねることしかできない。そうしていて時たまフレッシュな認識に出会って、自分の中に新たな回路ができる。自分が切り裂かれる。その自分の中にできた瞬間の位相断層~その対象化~考察過程こそが、人が最も着目すべきポイントであり、本当の勉強・学習の起点だ。それ以上の価値は、あなたにとってこの世のどこにもない。それが生きることや人生の正体であり、また、その出会いの橋渡しをすることにしか、いわゆるメディアの存在意義はない。

 

どうでもいい芸人の、前述した何気ない言葉に照射された僕の経験が、そう教える。したがって人はみな、いつだってムキ出しのまま。若いまま。

 

ぜんぶ当たり前のことだ。他人をとやかく言ってるヒマなどないってことだ。

 

人に助言するときだって、自分だったらこうするね、以上のことなんか僕は言えないね。子供に対してだってそうだ。自分の経験を述べると同時にそこにニュートラルな味付けしかしない。出しゃばらない。その留保が、ぼくからあなたへの礼儀の贈り物だ。

 

「批評」でなく「非評」を、「協力」でなく「参加」を。よりはっきりと、みずからすすんで自分の態度を開放していくことが、よく生きるコツ。そのあとだ「生きてるだけでめっけもん」って言えるのは。なぜなら「生き」てなければめっけもんも何もないから。

 

<了>