お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



自分で自分に対し「台風」を起こせるか

人は全員が普遍の結晶体である。だから普遍的なものいい物言いをするためには客観性を排除し、思いっきり裸の自分という純粋私感の地平から表現するのでなければ、何も言ってないに等しい。

 

いまいちど言う。地上の老若男女は、一人残らず普遍の結晶体である。通俗的に言えば、全員が神様である。その基底想念を抜きにした自由平等博愛なぞ、すべて泥人形の紙芝居である。また紙芝居だからこそ、感情や人柄、人間関係、右翼や左翼や共産主義などのイデオロギーにうつつを抜かしていられるのだ。立場の違い?思想の相違?「立場」も「思想」もそもそもこの世にナイ!つまりこれは逆に言うと「操り主」がいるということである。それは誰か?

 

誰でもない、それはあなた自身だ。正確に言えば、みずからの内なる「思い込み」である。既存の基準への迎合である。

 

笑っちゃうぜ革命だと?革命とは、指導者がいずこより来りて、万人の理念を肩代わりしてくれるなんてことではない。真の革命の成就とは、一人一人がしっかりすることしかないしそれで充分である。

 

笑っちまうぜ勉強だと?過去の既知を寄せ集めた教科書を一心不乱に、マジメーに読みふけることなど、勉強でもなんでもない。また、何かの観察研究に没頭することも勉強ではない。そんなことでは先に書いた「思い込み」、つまり前提や先例、比較の奴隷になってしまうだけだ。偏差値、志望校、成績に学歴…その後にストレートに続く勤め人生、年収の多い少ない、勝ち組負け組…勉強の先に待ち受けてるのはそんなものだ。普遍を背負ってるあなたにとって、そんな最下位項目に意味などない。

 

真の勉強とは、ものごとの根源にまでさかのぼって、過程をヒネッてみたり、要素を裏から透かしてみたり、物体をバラバラに破壊してみたりしながら自分で発見していくことだ。冒頭の文も、そうやって書いた。きょうかしょやけんきゅうとは、その真の勉強に供するための養分や補助輪にすぎない。「そもそも」や「だいたい」を筆頭語にしてからが、ほんとうの思索の始まりだ。

 

夏だ!台風がいっぱい大気をかき回してくれる。成層圏まで届く、自然の大規模攪拌だ。それはときに暴力的なまでに強制的に、地表を新陳代謝してくれる、そんな地球の荒療治だ。

 

ぼくらは自分に対し自分で「台風」を起こせるか、「台風」の目を頭の中に飼ってるか。いつもその1点のみだ、大事なのは。

 

<了>

 

変な箸の持ち方は、ほとんど公害。

箸使いがおかしな人ばかりになった。それはもう、見事なまでに目を覆いたくなるような無残な光景である。テレビの中の食レポも、飲食店における客も、箸を三角に正確に操って所作も優美に食べる人はもはや少数派に転じた。若者だけでなく、老人も、女性もである。これはいうなれば人が、ちっぽけな自分の殻、ちゃちい個性に閉じこもる醜さを、無反省に露出している光景である。他人の食事風景なんか、もはやまともに視野に入れられない。

 

箸が正確に持てないと見た目の審美性が下がるだけでなく、食べ物のホールド力が弱くなり運ぶ距離が短くなるため、結果として品のない犬食いスタイルになりやすい。人の食事作法は世の東西を問わず、頭は高く保持しておいて、箸やフォークといったツールの上下運動によって食べ物を口元に運ぶのが基本であると、古来より決まっておる。にもかかわらず現代では、箸の正しい使い方はないがしろにされたままである。

 

箸の使い方とは、寄せ箸などの禁忌事項と共に、歴史の中で先人たちによって何万何十万の試行錯誤を経たうえで洗練されてきた、由緒正しい系統である。素直に従ってれば、それでよい。

 

…などと言うと「おまえ何様のつもりだ」「箸の持ち方など個人の自由だ」「他人に迷惑をかけなければ何をしても許されるのがあたりまえ」「世間の流儀を押し付けてくるやつはエゴイストで嫌いだ」などという反発が出てくる。しかしこのテの反発は、発言者の魂にとってまず良くないことである。難しく言えば、戦後民主主義に関する最も醜い曲解であるからだ。

 

それは相手の考えを尊重するという、一見したところ公正であるがその実は腰の引けた不干渉な態度であり、自分しか見えてない精神の穴倉化の例であり、自己批判能力の欠如であり、個が個にとどまることである。自分が個にとどまることは個人性の強化に思えるが、それは自分が自分にふるうファシズムなのである。本当の自分とは、もっと大きなものに隷属している存在だ。それは表面的には例えば礼節とか規範とかであるが、本当はその本丸に鎮座する、ある種の普遍に与する帰属である。箸を正しく持ったり、食事の作法に気を使うことは、なによりも、一緒に食卓を囲むかけがえのない外者のためである。いいかえれば、自分は常に後回しでいいってことへの、美しい謙虚さの表出である。

 

浅薄な自己主張と、感情による直情的で主情的な反乱なぞ、ここ数十年でぼくはもう見飽きたよ。忘れ去られた「滅私奉公」という、この古めかしい言葉の正しい解釈と実践こそ、いま肝に銘じたい。

 

<了>

税金が高いと思ったら読む話

帝政時代のロシアには「ひげ税」という名の税金があったという。それは17~18世紀の大昔ですら、国際社会では時代遅れの風習に後退してたアゴヒゲが、往時のロシアでは個人(男)の威厳を保つため奨励されていた、と。その国内風習をダサいと感じたときの皇帝ピョートル1世が、国際トレンドに倣ってヒゲを禁じ、なおかつ罰則手段として税金を設定したという。

 

これを過去の珍妙な税制だと笑うのはたやすい。世界の歴史にはほかにも、細かく見れば山ほどのトンデモ税があっただろう。だが、いまの日本の税金制度は、果たしてこのヒゲ税を笑えるほどごリッパな合理性を備えてるだろうか。

 

自動車税、法人税、ガソリン税、酒税…洋の東西を問わず税金にはナントカ税といった名目が必要ということになっているが、そもそもにおいてこれは変な話ではないだろうか。税金が必要なら細かい分類など無用であって、ただ社会運営のための必要経費として税金を個人において請求し、粛々と徴収していればよい。形態だけの表現をすれば人頭税への一本化だ。一本化しないと税金のダブルカウント、トリプル徴収などが起きやすく、整合性が取りにくいという弊害がある。そのかわり収支決算的に使途は明瞭に開示する、と。その方がスッキリするし、税金にまつわるもろもろの手続きが廃されることによる、いわゆる経済的恩恵も大きい。詳しく計算したりしないが、その恩恵の大きさは、個別のなんとか税をひとつ丸ごと廃止してもおつりがくるくらいの規模であるはずだ。

 

またそれ以前に、為政者側は税金額の前提やコンセプトをしっかりさせることも、忘れてはならない。つまり、今後10年くらいに渡って、国家はこういう運営を目指すから、そこから逆算するとこれくらいかかるから、あなたの税金は今年これこれだ、と。それが筋であって、それこそが本来の税務だ。マルサとか査察とか、そんなくだらんもんは要らんよ。

 

(逆に当初の計画よりも早くいい社会が実現できたから、今年は免税減税するよ、という年があってもいい。ただたんにある部分を減税してそこだけハッピーになっても、他の場所に課税のしわ寄せがいくだけだったら、およそ知性の所作とは思えない)

 

ではなぜこうした本筋が実施できずに、あるいはやらずに、現代ではこまごまと税金は細分化されてるのか?それは為政者が、生活のあらゆる局面で毎日、いや毎時間ごとに税を奪って、しかもそのトータル性を人々に知らしめたくないからである。また、税務にまつわる雇用を確保したいからである。租税など取れるだけ取ってしまえばこっちのもん、という焼き畑農業的無計画性が、仕事の粗さになって表れているのである。課税の細分化は、課税の丁寧さとは全然関係ないことが分かる事例である。いや、はっきりと全然逆だ。

 

消費に課税を伴わせる、なんてぇのは税金の存在をことさらに希薄化し、なんとかドサクサに紛れて個人の財布からかすめ取ったれ的な、ぼくらの生活に真綿をかけて首を絞めるようなことである。課税の大元から最終の支出まで、過程を全部はっきりさせていくのがホントの公共事業なんじゃないんか。

 

いま遺贈なる制度に注目が集まってるというが、生きてるうちはみんな非課税で、死んだら財産資産は税金として、後世のため公正に、全部没収くらいの強権制度がいいのではないかな、なんて思ったりして。どうせ日々真綿で首絞められてるなら、自覚的な方で死ぬのもいいい。「税金が高いと思ったら読む話」という題にしたが、節税ノウハウでも書いてあるのかと思って読んでくれた人、残念でした。

 

<了>

仕事とは、やるかやらないかだけである。

いきなりだが、損益計算書も貸借対照表も決算書も、本当の経済からみたら不具である。理由はそこに時間を書く欄がないからである。労働時間は勤労管理や人件費のジャンルに押し込められていて、金銭の流れとは別立てとされている。だけどそれって変じゃね?利潤追求の大切な要素には、まちがいなく労務時間があるじゃん?っていう疑念があるはずだがそんなちっぽけな違和感は、「なんだこれジャマだ」とばかりみんなひょいと飛び越したり、見なかったことにしてしまう。

 

この、昔からの連綿と続く「麻痺」が、いま、ブラック企業の存立基盤となっている。労働者の時間なら、搾取してもいくらでもゴマカシが効くし、逆に言うと労務時間には純経済学的に理論的なバックボーンは(労務法以外には)ないからである。だから本質的に言うと、「ブラックな会社とホワイトな会社とグレーな会社が世の中にはある」ではなく、「企業体そのものが例外なくブラックだ、資本主義はまっくろじゃ」となる。言っとくけどこれは労働基準法とかに違反してなければOKっていう次元の低いハナシじゃないからね。

 

(本当は時間じゃなくて、人間性こそが真の経済を成立せしめる唯一の要素であるのだが、人間性を書く欄がないのはまぁ現行では致し方ないにしても、せめて計量が可能な、勤務などの「時間」への評価をもっと精緻にしていかなくては、人の世はいつまで経ってもホンモノの経済には至れまい、ってことである。言うまでもないが原則は、経済とは何のためか?人に寄与してこそである、ということだ。そこまで至ってない経済など、資本主義だろうが自由経済だろうが呼び方は何であれ、いつまでたっても画餅である。成果主義も実力主義もある種のゴマカシだ。年功序列制度の方が時間へのヘリくだりがある分、まだマシとさえいえる)

 

このように、現代の経済とはまず第一に人間を疎外するもの、という悪反省に立って、金銭の流れ以外の評価軸を、貨幣に拮抗するほど骨太に打ち立てないと、すなわち経済学にコペルニクス的転換がないと、画餅はずっと同じままで腐るだけであり、人間社会の将来的ありようとしてはまるでダメである。経済学やらの学問分野は、そのへんの「本来の未来志向」をどう考えておるのか。ただ既存の枠組みの中で理論をこねくり回しても、果たして何もできはしまい(いや自分の給料だけを心配する態度なら、経済を永遠の課題にしておいた方がいいと思うはずだ。どうせ学問なら実害はないとか思いつつ。しかしその根性がおのれの死を招くのである

 

また現代経済の悪弊をもうひとつ挙げよう。「売れ筋」の追及である。小売り業や販売業なら品ぞろえの面で誰もが当たり前のように狙う売れ線とやらも、思考停止の幻想であり、不毛な悪弊だ。売れ筋や売り上げランキングとは、他律であり横着である。剽窃であり横取りの発想である。自分の関与はそこには何もない。ただ外からの基準に従うだけだ。「基準」とやらが横取りのコピペであることにも気づかずに。そう、いまの経済とやらはぜんぶこの短絡さだ。

 

家電量販店は堅調な業績推移なのに、東芝やシャープなどの家電メーカーは青息吐息ばかりになってるのはなぜか。それはよく学者や評論家のいう海外拠点への投機失敗とか、リストラ戦略の遅れなどの些末な理由ではない。その真因は、メーカーが心血注いで新技術を開発しても、成果を横取りされまくる時代に、ここ20年ほどでなってしまったからだ。量販店は売れ筋商品だけを仕入れられれば、メーカーが違ってもいいから太ってこれたし、技術を盗むテクノロジーは、その本体技術をしのぐほどの発達をとげていると聞く。また、本体がなくなればコピーも死ぬわけだが、コピーする側はそんなことを意にも介さない。ひとつダメになっても次の何かに乗り移ればいいだけと思ってるし、そのとき儲けられればそれでいいという、焼き畑農業的な態度だからだ。

 

(こういうヒドい状況を招いたきっかけのひとつは、90年代に始まった「オープン価格制度」である。あれがメーカーから価格の決定権を奪い、利益は量販店に直結、という骨抜き現象のはじまりになった。そして以前の家電量販店の地位は、今やAmazonにどんどん横すべりして主役交代していく途上であるのは言うまでもない。以下は私見であるが、オープン価格制は自由競争と消費者保護が本来の意図であったのが、その本来の意図よりもメーカーの利益構造を破壊したという骨抜き弊害の方が、今となっては何倍も大きい。にもかかわらずその検証も行わないまま現在にまで至っているのが、メーカー不況にさらに追い打ちをかける因子になっている)

 

横取り経済。それは文具メーカーが新しいシャープペンなどを開発しても、特許などの策を講じなければ半年後には類似品が100均ショップに並ぶのと同じ現象である。しかもオリジナルにおける開発費上乗せがないから後発組はその分価格は安く、それでいて品質は同等である。まさに、正直者がバカを見る世になっているのである。

 

こうした「経済」活動は、ことの本質を見てないと「効率化」などと評されてもてはやされる傾向があるが、まるっきり違う卑怯な態度だ。それは「勝ち組」などを生み出すかもしれないが、一瞬の蜃気楼にすぎない。それどころか逆に、さっきも述べたような人間疎外を、巡り巡って引き起こすだけである。

 

例:楽天。あれは昔からある百貨店同様、媒体貸しだけの虚業である。中身はネットモールの運営ノウハウだけだ。出展者(楽天にとってのカモ)の努力は、楽天へのテナント料金に化け、三木谷社長の養分となる。一度出展を検討したこともあったが、楽天のマージンは料率が高く、粗利率がよほど高くないととても店を出せない。店側は自前の商品に自信があるなら、当初は孤立無援でも独自ドメインのHP販売1本に絞るべきである。本当のノウハウが身に付く地点はそこしかないし、あらかじめ準備されたワクみたいな中に、儲け話が転がってるわけがない。

 

コピーとオリジナルを反対の視点から考えると、前にも書いたが、真のオリジナルは人間個体であり、情報の本家本元は人、すなわち宇宙唯一の、他ではいっさい代替不可能な、あなたやわたしである。だからさっき書いたように、ホントの経済は人間性への執着なのである。したがって、経済指標における人間性評価への取り組みは、はじまってもいないどころかその萌芽の兆しすら見えない点で、今はまるでダメである。相も変わらず何百年も、ケーザイはゼニの流れとかケイキの波とかを追ってるだけで何の展望もない。経済論評も、ただの現状分析というか観察がおのれの本体だと思ってる。そんな経済などカタワどころか始まってすらいないと、マルクスを棄ててぼくはここに断言する。

 

だから、いわゆる経済回復(というか真には停滞、というかはっきりと退化)は、近代社会の腐敗と軌を一にしている。つまりそれは近代以降、身分だったり国家だったり、資本家だったりによって、人が人らしく自分の生を生きることをおろそかにさせられてきた、腐った歴史進行と一致する。民主主義などと称される今だってそうだ。ネットになってコピペでコンテンツを形成することが当たり前となり、小学生でもできるくらい容易になったが、生の充実、成長の輝き、はつらつとした生き様の獲得に、コピペはいっさい貢献しないのである。コピペは自分をみつめることではなく、見えなくさせるだけだからだ。スマホなども同じ、非成長・愚鈍化ガジェットである。ほんとの経済も民主主義も、まずこだわるのはそこからの改善だろう。

 

仕事はなんでもそうだが、やるかやらないかだけである。言い換えれば、実務担当の当事者になって泥にまみれるか、客観的で見事にクレバーな能書き掲示者にとどまりつづけるか、だけである。そこに自分の決意がこもってるかどうか、それだけである。それが生きることと同義でなけりゃ、人はたんに経済の奴隷で終わる。

 

<了>