お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



量的思考だけで勝ち負け判定するなど、廃人がたわむれる遊びにすぎぬ。

本末転倒の風景

 

身近な、目に見えるところ

 

家庭用インクジェットプリンター本体の新品価格が、純正インクのセット価格を下回るようになった→値段だけ考えたらプリンター自体の買い替えばかり頻発する。

 

もともとは個別のニーズに合った情報の提供をするという、提案型情報コンシェルジュ的な意味であったキュレーションメディアが、数か月のうちにいつのまにか総花的なサイト展開を標榜するようになり、数撃ちゃ当たる(読まれる)式のぺらっぺらに薄いサイト更新になり、その結果コピペの氾濫する糞バイラルと堕した。

 

「キュレーション」とかいうものなど、事業でも編集でも仕事でもない。それどころか作業にすら値しない。リライトと外注クラウドと、botとSEOと、検索キーワードとPVと、広告代理店とASP(アフィリエイトサービスプロバイダー)が、グルグル回ってるだけで、読者はPVの供給元としか認識されてない。濡れ手に粟で銭を手中に納めるうまみと、企業体としてのやみくもな拡大路線ががっちり手を組むと、時代を問わずこうなる。もっというとIT業界って出目が広告代理店とか銀行みたいな「虚業」だから、本末転倒にそもそも陥りやすいのね。具体的な生産に携わる下町の町工場社長は、そんな「遊び」に戯れてる暇はないから。

 

オリジナルソースは増えぬ割に、結果をかっさらうだけの剽窃が世にはばかるという、この脱力するような経緯。welqをはじめとした企業体DeNAの、web戦略におけるアコギさが話題だが、問題はネットにもパクリにもアフィリエイトにもない。いやそこに問題はあるが、深層にある真相は、あれはついつい短絡や表面上の手軽さに流れてしまい初心を忘れる、そんなわたしたちの本末転倒の姿そのものである、ということだ。DeNAの醜さは、わたしたちの醜さの投影である。

 

プロ野球のオーナー企業など、ろくでもないところばかりである。自分の銭のために他人を足蹴にする会社が多いではないか。ロクでもない自社の悪点を覆い隠すため、プロ野球みたいな大きな隠れ蓑が必要なのだ。優良企業や上場会社などの外部的箔付けは、いったい誰に、何を約束するというのだろう。

 

見えないところ

 

個人のモチベーションやパフォーマンス、組織のマネジメントなどがそうだが、世間的に「上げよう」とせねばならぬことになってるものなど、実は大した意味はない。学校の成績もそう。

 

意味があるのものは、勝手に自動的に「上がってくる」ものの中にしかない。自発的に継続し、それによって自動で向上してくることがホンモノの第一条件だ。

 

締め切りや時間を守ることは、マナー的な意味はあるが、本物の、硬質な、意義のある仕事には無関係、どころか弊害である。約束を守ることは大事だが、もっと大事なのはその約束の意味を常に問う姿勢である。

 

ブームや流行に1ミリも踊らされない人がいるとしたら、それは「それ」を生み出した人しかない。だから秋元康や宮崎駿、北野武や押井守の眼はいつだって冷淡にして純潔だ。彼らはおそらく、ネット上での自分への罵詈雑言など1秒も顧みない。仕事が成果が十分に自覚的だから、そうする必要がないのである。それが「踊らされない」ということである。あくせくと、アクセス解析ばかりに明け暮れていたに違いないwelqとは、その点で真逆である。

 

だから「流されまい」と踏ん張る人ほど、その渦中に取り込まれている。その逆説的滑稽さを笑おう。そしてそれをひと刺しで射止めてしまおう。その包括視座から、次の超克が出てくる。そのレベルに挑戦する「約束」こそ、真に輝く価値がある。

 

<了>

 

足下に潜む闇。

去る11月8日に起きた福岡の博多駅前道路陥落事故は、発生から約1か月が経過した現時点で、もうとっくに収束している、もはや忘れかけの旧聞である。それどころか発生から1週間で地は埋め戻され、平穏はあっという間に戻ってきた。

 

まるで何ごともなかったかのように。

 

道路陥没の直後における後処理は72時間程度で一応の収束を見せたという。また、崩落が始まった際の初期対応の迅速さ、臨機応変さ、そして復旧のスムーズさは、日本の機能社会の、ある面での美談である、という。

 

しかしそんなものはいつものように、この社会の後処理における手際の良さの話でしかない。日本は、後始末の段取りが小ざかしいまでにウマい国No1だ。この70数年がその「巧さ」の歴史である。

 

そんな後始末よりはるかに問題なのは、人が踏みしめてるつもりの大地が、実は「大地」などではない、という戦慄の方だ。

都会の地面は砂上の楼閣の上に立ったアスファルトでしかなく、地下には大きな空洞とすべてを削る地下水脈を抱えていて、いつまた窪むとも知れぬものであるという、このそこはかとない不安。

都市とは現代社会とは、いつ崩落するかもしれない脆弱な基盤の上に立つ砂上の楼閣であって、地下鉄など正気の沙汰ではないインフラである。そのほかに地震だってあるのだから。

ジャマなものは埋めちまえ、という人為的短絡が真に意味し、環境が人にしっぺ返しするこのサイクルは何なのか。それがあの事象の「本質」。それは、いくらボーリング調査しようと、土木の最先端技術を集結しようと、原因究明などできない真因。

 

その本質の噛み締めすら与えないほどスピーディーな、かの地の「復旧」に、いい知れぬ痛痒を感じる。空白は足下にいつもあり、崩落して人を飲み込むその闇は、いつも手ぐすね引いて人の、車の、インフラの転落を待つ。その崩落を準備するのもまた、人である。地下開発計画自体は緻密なものだろう。だが電力が、地下鉄が、ケーブル類が、トータル性をわきにどけて我が物顔に地下を掘って大地を蹂躙することへの、根本からの反省はない。

 

あの博多の大規模崩落現場付近は、固い地盤なんだそうだ。でもそんな地質学上の定説をあざ笑うかのように、崩落個所は実に醜悪な断面を見せつけていた。ビルの基礎の杭がかくも醜いとは知らなんだ。歯医者でよく見かける、歯周病で歯の根元がやせ細り、指で歯を押しただけでグラついてしまうような腐った根元の写真を、あの福岡の現場は想起させた。その他は漆黒の暗黒。汚水が噴出し、信号機や電信柱をいとも簡単に飲み込んでしまう闇。

 

かくも無残にして醜い道路の断面を、不便なままムキ出しに晒していたほうが、人の意識改革に、かえってよくはなかったか。

 

ひるがえって、東京。少し前のニュースによれば、都下は、知事が電柱の地下化を推進するのだという。たしかに無秩序に延長交錯された電線は醜かろう。地下化するのも、よくは知らないがイマドキの技術なら、多少はスマートに推進できるだろう。

 

だが利便性の急速な発展に伴って発露してきた電線・電柱のような「醜さ」を、別の合理性で糊塗することは、別種の闇を生み出す。そしてそれは人に「復讐」する。その東京の場合のその「復讐」は、福岡のケースとは違ってスケールが大きい分、人命をたやすく奪うだろう。

 

有事の際に首都圏ではよく帰宅困難問題などが取りざたされるが、帰還できる住居が残存してることが前提の災害対策など、牧歌である。一瞬ですべてを、根こそぎ喪失して跡形も残らない、その真の意味を、3.11で噛み締めてこなかったのか。博多駅前も南三陸町も、東京の明日の姿だ。

 

「男は家を出たら七人の敵がいる」なんて時代ではない。今は「外に出れば百の復讐が待ち構えている」だ。おお怖い。引きこもってる方がどれだけマシか。

自宅が崩落地盤の直上にあるかもしれないこの私もまた、牧歌を謳歌してるおろかな民であろう。

 

<了>

 

 

思い出のメディアはいたるところに。

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*焼きメシひとつに味という記憶が宿る。

 

人は日常のデザインを無意識のうちに記憶している。たとえば食器のデザイン。潜在記憶にこびりつくように、食器はふとしたときにいろんなことを思い出させる。

 

僕は離婚を1度経験している者である。離婚とは、ある関係性の終わりであって、人と別れるということは終わりの後始末をしなければならない、ということでもある。

 

離婚のあと、元女房と二人で暮らしていたアパートを、ひとりで片づけた経験がある。最初は居間や寝室やそこらにあるガラクタを、事務的に片づけた。大型家電やソファーなどのかさばるものをリサイクルショップに運んだり、掃除したりしてるうちに、淡々と時が過ぎた。しかしある段階から徐々に、その片づけが心理的にヘヴィーになっていった。それは後始末がキッチン周りに及んでいって以降のことだ。

 

そう、別れの後始末でいちばんコタエたのは僕の場合、思い出の写真やら何かの記念品などではなくて、なんといっても食器類だった。全部捨てるつもりだったから余計にしんどかった。

 

毎日必ず使っていたあの多目的に使える平皿、なんでも放り込んで煮た土鍋、調理に失敗しながらも、らーめんにも親子丼にも使いまわしたどんぶり、友人を招いてイタリア料理でホームパーティーしたときに重宝した大皿、お気に入りの箸、丸みが手になじんだスプーンといった、実にささいな、なんでもない日用品としての食器とケジメをつけるということ。食器は単なるモノを越え、食事という「コト」と結び付いた思い出メディアだと知れた。

 

自治体の決まりで陶器やガラスは分別し、処理場まで自分で運んで捨てなければならない。この分類が、さっき書いたようにじつに参る作業だった。お茶碗ひとつ手にとってはタメ息をつき、グラスを手にしてはタメ息をつく。自分の記憶も分別して捨て去るのを強要するかのようなこの分類作業は、まったく予想外に時間がかかった。

 

怒涛のようにため息が出た。泣きはしなかったが哭いた。

 

トドメに、キッチンの奥から干からびた昆布が出てきたとき、ダシの取り方で元嫁とやりあった記憶がよみがえり、作業なんかやめて酒をガブ飲みして寝てしまった。こんな夜もあるのだ。

 

食器類は翌日全部捨てた。2012年11月のことだ。

 

あれから4年経ったがまだ独り。依然として「片づけ」は終わってないってことだ。今夜も酒をヤるしかないだろう。

 

<了>

 

なんとか堂という名の組織は、自社のスタンスを自己点検する時期でないの?~「堂」的なものからの離脱。

老舗のお店や会社のネーミングに「なんとか堂」ってのがあるじゃないですか。あのいかにも古風な響きのやつ。有名なところだと本屋のジュンク堂なんかがそうで、花札をつくってた時代の任天堂もそう。時代の先端イメージがある広告代理店「博報堂」も、「堂」の世界の住人。

 

「堂」、どーですか?みなさん。どーにもこーにも今じゃ、堂々たる古くささが感じられるなぁ。古色蒼然としたネーミングセンスとして響いちゃうなぁ。

 

堂はお寺の本堂のような「中心」が語源だろうと思うし、漢字のデザインとしても左右対称、垂直方向にも安定感がある。手で書いててもすっきり円満に描ける漢字の一つであるし、「堂」に象徴される世界観が、しっかりした内実意味を持つ時代も長かったろう。

 

だが現代はすっかり分散と可変と細分化のアメーバ分裂社会である。「堂」の意味もその中で、変わったり薄まったりしてしかるべきだ。

 

組織のネーミングをするにあたって「堂」が流行った大昔は、身の回りのほとんどなにもかもが黎明期であった時代であり、崇高な経営理念があって、社会的使命に燃え、一点に向かって邁進するだけでよかっただろうと推測する。「堂」の名のもとに。

 

しかし結局は利潤追求であり、金回りの調子がよくなると我が世の春とばかりに「堂」に含まれるエラそうサイドがいわゆる「中の人」を錯覚せしめ、ヤラしさが増長され始めた。

 

本来は風格と本格の王道を示すいにしえ表現だった「堂」も、さっき書いたようにすべてがライトな相対化の波にさらされ、あらゆるものがインスタントで分かりやすいものだけに集約される現代にあっては、「堂」の本来有する骨太で確固たる本家本元というメッセージ性はすっかり風化し、主観で恐縮だが、ただエラそうにふんぞり返った悪しき権力志向が、形骸的に盲目的に受け継がれてるだけの土壌が感じられる。さすがに2016年ともなれば、どの「堂」会社も権力のニオイは薄まってるんだけど、やっぱりプライドとか自負とか社風に、エラそうな「成分」は残ってる。体育会系の社風やノリなんかも、まだかなり残ってるのではないか。

 

堂の背後に控えてる思想は、上から目線で下々の庶民を啓蒙するという、迷惑千万なご大儀である(だから出版社などに「堂」の付くのが多い)。自分こそが規範、規格であり、自分を中心として世間は廻るべきだという力点が、そこには感じられる。

 

つまり、旧来的前近代的な価値観の「引きずり」に無知覚な感性が、「堂」の世界観が跋扈することを未だに許してるのではありますまいか?

 

しつこいようだが「堂」が重鎮、中央集権、参照元、規範元の象徴だった時代は終わりを告げて久しい。かつては偉大とされていたものが、いまはお荷物。万物は流転するし、誰だってしくじりつづける。人はむしろポシャってからが勝負だ。だから組織だって可変態でいいのだ。

 

天皇は敗戦後に人間宣言をし、国鉄は30年ほど前JRに変貌し、郵便貯金がゆうちょ銀行になった。権威は地に降ろされ、一握の砂となって民間に戻り、庶民とほぼ同じ地平で世界を支えるのである。

 

そういえば「党」ってのも「堂」に似てる言葉だなぁ。音だけでなく、煮ても焼いても食えないような古めかしさも含めて。なんにせよ組織も人も、所属してるだけで安泰OKなものなんてない。自分自身の価値ある失敗体験を、遠のかせてるだけだ。

 

 <了>