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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



テレビ各局の社風を斬ってみた。

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地上波テレビ各局の社風を、番組から想像して独断で斬ったぞ

 

物心ついたときからいつのまにか世に存在してるテレビ。ふと気が付くと、どんな友達よりも仲良しで、親兄弟よりも付き合いが長い、そんな存在です。

 

いくらインターネットが発達しても、スマホやソシャゲが隆盛を誇っても、だらだらスタイルにはやっぱテレビであります。そんなテレビを番組単位でなく局単位で、人にたとえて語るという、尊大で大きなお世話的記事を書きました。

 

題して「地上波テレビ各局の社風を、番組から想像して独断で斬ったぞ」。

 

読者諸氏には内容に関しどのくらい共感して頂けるか拙者には分からぬが、まずはTBSから斬ってしんぜましょう。

 

 

TBS…孤独な都会人のひきこもり自画像

 

www.tbs.co.jp

たとえタレントを多数集結させて華やかに番組をつくったつもりでも、どうも全体に寒々しく空々しい、そんな雰囲気を感じる局である。スタジオのセットも民放キー局の中では一番書き割りっぽい、よそよそしい風情がある。むかし「8時だョ全員集合」はセットを回転させてコーナー転換したが、ああやって舞台裏を全国に晒して恥ずかしげもなく堂々としてる「合理性」が、TBSの論理という気がする。緑山スタジオの多用とか、収録スタジオの電気が夜には落ちるとか(「うたばん」)、セット豪華主義かつ内輪にしか通じない楽屋落ち傾向があるのだ。

 

同局が好んで取り上げる番組テーマには、ここ20年ほど観察できるひとつの特徴がある。それは熱血路線やスポーツに偏重してるという点だ。古くは「風雲たけし城」あたりに源流を持つ、炎の体育会系とか筋肉番付のようなスポーツバラエティ番組が、その例である。それは自分の雰囲気が寒々しいから、熱き情熱とか熱血のストーリーを扱うという、 一種の自覚に基づいたバランス感覚からの対応なのではないか。だとしたら熱血も、かの局には素材でしかなく、その、足りない栄養素をサプリメントで補うがごときピンポイント補填主義は、やはりそれも冷めた合理姿勢からくる発想だと感じる次第である。

 

自作自演(ヤラセ)を交えてでもホットであるのが宿命のテレビ界において、TBSの、この独自ではあるが冷ややかなスタンス。「ザベストテン」も「金八」も「うたばん」も、なにか孤独でさびしかった。ワーワー賑やかしで盛り上げようとすればするほど、むなしさを感じたものだ。私見ながらこれが同局のポジションがハンパである理由であろう。

 

この冷たさは、大都会のスマートでクールな体温に由来していると思っている。だからつまり、東京なのである。TBSとはその名のとおり、東京のみを見つめ続けている放送局である。なんとはなしに閉鎖的で孤独。人を描くのは、あまり得意でない局だ。

 

ところで単なる偏見かつ大きなお世話だが、かの局は、社内人事なんかも冷淡なような気がするな。

 

 

フジテレビ…家族でわいわいやって低脳へまっしぐら

 

www.fujitv.co.j

「たのしくなけりゃテレビじゃない」のキャッチフレーズのもと、楽しさや軽薄さで80年代から世をリードしてきた同局だが、それも含めてこの局の根幹をなすものは「ファミリー」演出だと思う。フジに出る時は自局の若手アナもベテランアナも外部タレントも、要するに社内外問わず、出演者はみな平等の扱いである。 まさに和気あいあいといった感じで、みんなで番組をつくっているんだぞ、という雰囲気を色濃く感じる(めざましテレビ等)。したがって最終回のカタルシス や、出演者が卒業する際のオーラス感はとても大きい。

 

番組編成も50年くらい前から家族ムード推しだ。思い返せば70年代、日曜夜の「オールスター家族対抗歌合戦」とか、アニメの世界名作劇場(「フランダースの犬」とか)などの牧歌路線が、その最もたるものだった。言わずもがなの「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」も。

 

またバラエティーも一貫して血の通ったにぎわいを感じる。芸能人のともだちに電話をかけさせて、それをそのまま次回のトーク人選にしてしまう(初期の「いい とも」)発想のはんなりさ。この点が先述した「東京ローカル局」としてのクールなTBSと対照的だ。フジは、だからややドンくささも残る「地方」「田舎」 である。新宿区河田町にあった時代の旧本社は、まるで雑居ビルのような外観を呈していたのだった。

 

ただフジテレビのほんわかさは、人の良さが出てるだけなのが弱みといえば弱みだと思う。だから世間をうまく乗り切る戦略とか、多少ズルしてでも相手を出し抜くとかいった狡猾さや鋭利さは、あるようで実はない。フジの凋落はよく喧伝されてきたが、自局の地位が下がっても、ほんわかファミリー基調に特に変更はないようである。戦略がなく、資質だけでやってきたから当然だ。後述する日本テレビのように、自分の特色を対象化して捉え、うまく切り取って成長させて新しいフレームをつくる、といったことがどうも苦手、どころかそれを意識したこともないのではないか。

 

いっときはバブルの絶頂、時代の寵児だったが、いまでも当然、一定の(そして相当の)収益はあるんだろうね。フジテレビの話に限らないが、儲かることは鈍することでもあると知らしめてくれる。地方には案外金持ちも多く、その姿は悠々自適の好々爺、しかも思考停止ぎみのそれというキャラが少なくない。フジはそれだ。たぶんずっとこのまま続いてゆく。

 

 

テレビ朝日…ぜんぶ上滑り。たとえれば、マズいレトルト食品。

 

www.tv-asahi.co.j

タイアップ大好きでメディアミックス命。特に、別にそんなに面白くもない自社放映ドラマにゲタをはかせて映画化し、なにかというと「大ヒット上映中」と大風呂敷を広げるのが、お得意のワンパターン。 十年以上に渡ってそれ一辺倒の持ち上げ方法論にはもう飽きた。自局の番宣が他局にくらべても目立ち、かつ自前でのヨイショぶりが大仰。この傾向は日本人の控えめな国民性を超越しており、ほとんどステマレベルである。

 

また、親分である朝日新聞仕込みの底の浅い正義感を振り回したり、これまた同社刊の週刊誌「AERA」のように、ジャーナリズムを気取っていながらその実、単に世相をはやし立てるだけの番組(「TVタックル」「朝まで生テレビ」など)を長く続けるなど、たぶんキー局のなかで一番うぬぼれ感度が高い。常にエエとこ取りだけをしてテメーだけこざかしく世間を渡っていきたいという、虫のいい社風が透けて見え、浅薄な啓蒙主義をその絶好のかくれみのとして使う。深夜帯の番組が妙にユルいが、それはそこら辺の裏返し現象であろう。

 

勉強はできるが知恵はなく、言動も人格も奥行きが浅い。しかしその欠点を隠して金儲けだけはうまい。そんな似非インテリが巣食う伏魔殿。まるでパッケージは豪華で値段もそこそこするのに味わいは薄い、そんなレトルト食品のような局だ。ちなみにわたしはライバル局の回し者ではないぞ(笑)

 

 

日本テレビ…超安定チーママ。その磐石ぶりには死角なし。

 

www.ntv.co.j

国内テレビ業の王道、象徴、保守本流。産業でいえばゼネコン、鉄鋼、自動車メーカー。重厚にして長大なる長期安定政権。同局のバラエティー番組における大箱感、それこそ大船に乗ったような安定感は、長年ゆるぎない同社の特徴を照射してあまりある。例:笑点

 

あまりに保守すぎて、同局は愛で地球を何度も救ってるし、そのたびに自分で自分に感激、号泣してるが、さすが本道、善意の裏でゼニ回収はキッチリ完遂。泣くフリも最初から上手である。このあたりのサジ加減は水商売業のセンスと紙一重。

 

他局とは趣を異にし、あまり自我を出さない。黒子役に徹することが多いのも保守を感じさせる要因である。「電波少年」のようにバラエティー分野でときどき破綻、というか破天荒な番組を出してくるのは、はぐれ因子も社内に擁せる余裕のなせるわざか。このはぐれ因子が、さっきもフジのところで書いたが、自社の毒見役でありまして、実験的なことや非難を浴びるような噛ませ犬みたいな役目を割り振られている。まるで中国における北朝鮮のようなものであるが、それでいてこの分野でもヒットも飛ばす。さすが保守、長期政権の運営術に長けている。伊達にボスとして読売を据えてるわけではなさそうだ。

 

これからも日本テレビの時代は続くだろう。そして次代の日テレの変容度合いは、戦後ニッポンのレジームが完全に崩壊するときの、社内異分子の飛び出し方如何で決まるだろう。

 

 

NHK…官僚と政治機構が放送してるようなもの。

 

www.nhk.or.j

教育はあのままでいい。かずかずの実験的な取り組みが見られ、語学番組などは世界でもまれにみる丁寧な番組づくりではないだろうか。長年のノウハウの蓄積があり、かつ再放送でお茶をにごしたり、マンネリに陥ったりは最小限。だからときどき番組を見ると目を見張らされる。というか、「ときどきだけ見ればいいや」という気にしかならないことの方が問題。

 

そしてNHK総合はというと、これが教育よりはるかに問題。全体に頭のてっぺんからつま先まで迎合主義に染まっており、全方位にウケようとムリにムリを重ね、紅白のように結果はスベッてばかりという、なんともお寒い方向の中にある。NHKさんは準官僚組織なんだから、民放の模倣もほどほどにしてもっとムスッとしてていいのではないか。むしろムッツリした雰囲気が支配する時代の重さを、いまに伝える唯一メディアとしての自覚を高めてほしい。いまのままでは「生活の心配のない人は余裕があっていいな」としか言えない。

 

ただ「伝えてピカッチ」という新感覚のクイズ番組は、人選も含め他局にはない発想とテンポの良さがあった。しかし3月の改編で終息。なぜあの路線を広げないのか理解に苦しむほどの良質さであった。思い起こせば「連想ゲーム」など、総合はたまに目の付け所が良くて品もある娯楽作を出してくる。本物の知性が社内にいるのだな連綿と。そのあたりもいい意味で官僚機構的である。人材が引きもきらずに揃ってるという意味で。

 

 

テレビ東京…見なくて七癖。うめ草、みちくさ、根なし草。

 

www.tv-tokyo.co.j

みんなのガス抜きのための局。テレビ界の排気弁の役割を担う。だがそれが同局の自虐点となり、「世界でひとつだけの花」の腑抜けた歌詞と共に、日本を代表する逃げのエクスキューズにもなってる。

 

ただ皆さんとうにご承知のように、テレ東はそれだけに得意技も冴えている。なんでも鑑定団やバス旅、モヤさまなどに見られるように、放浪系の、根無し草的な ニッチフィールドに絞り込ませたら、テレ朝の深夜枠に勝っても劣らぬユルい妙味を醸し出す。消極性、タルさ、仕方のなさと憎めなさ。そうした価値観があってもいい。そんな気分をバックアップする、テレビ界のヘタレ「しんがり」。どんな境遇になってもどっこい生きてるシャツの中といったおおらかさには、勇気付けられることもしばしばだ。

 

こうした独自視点の番組を頻度高く放り込んでくるあたりに、 他局には感じられない柔軟な企画力を確認できる。つまりアウトロー的なのが特色。それも寅さんのように、安心できる逸脱なのが鉄板だ。まさに庶民のための安全弁である。同じ「東京」でも言うなれば多摩地区。TBSのようなお高くとまってる感はゼロ。

 

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以上、テレビもとうの昔から多チャンネル(これは地上波だけでないって意味であって、本当に多様化したわけではないけれど)時代に突入し、リモコンも操作ボタンがやたら増えた形状になってから久しい。パッとつけた番組の雰囲気でチャンネルをなんとなく当てるという芸を磨いてるうちに、このような記事となりました。

 

やっぱり、なんだかんだでテレビにツッコミ入れるのは好き。笑

 

<了>

 

流動性のある社会とは何か。

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*サンドイッチも思いつきだが偉大な発明だった。

 

 

流動性のある社会とは何か。

 

仕事は100%資質で行うものだ。民進党所属の蓮舫の二重国籍が話題だが、いったい何の話をしておるのか。仕事に国籍は関係ない。身分固定社会からは脱皮したんではなかったのか。逆進するのか。

 

仕事は上位概念である。それが本来目指すべきなのは、次世代のための基礎固め、人柱になることだ。それが人の仕事の本体であり、もっと言えば人や社会の本当の営為である。

 

そのステージに到達するためには、今の自分の仕事の根本を疑い、場合によっては見限る必要がある。極論すれば「自分の現在の仕事が次世代にとっては不要になる、その領域を目指す」ために、人はその仕事をするのだ。

 

例えば弁護士。依頼事案を受け取り、調査精査し法廷に立ち、弁論を展開する、そんな通常の弁護業務は、弁護士のホントの仕事でない。そんなものはあとかたづけの作業だ。それはそれで必要だが本当に弁護士が注力すべきは、いさかいや裁判沙汰が起こりにくい、もしくは起こっても簡易に和解に到達できる社会を、大元から目指すことだ。弁護士の存在が少なくなっても円滑に回る世の中を目指すことだ。

 

同様に、警察官も官僚も政治家も、医者も役所の窓口職員も、方向性は全部同じである。自分の業務をなくしていく、自分の出番を減らしていくことが、その仕事のひとつの大きな目的なのだ。

 

公務員的な仕事だけではない。業態でざっくり言うなら、流通も小売も建築も(食べ物の生産を除いた)生産も、IT関連も、その点でなんら変わりはない。だから無論、いい仕事を追及すると金にならない。収入の低さは、民度の高さに正確に比例するのだ。

 

仕事とは、今ある不具合や不便、非円滑を是正するものなのだから、その仕事の推進により不具合が少なくなったら、テレビの登場後に紙芝居屋が廃業して別の職に就いたように、次のステージに変わっていこうじゃないか。そのとき参照にしたり、頼りにするのは先人たちの仕事の成果だ。つまり、ぼくたち自身も、みんなからの共有遺産で暮らせている。

 

だから終身雇用とか職の安定政策、失業率の改善なんていうマクロ的な経済学や議論は最初から画餅であり、仕事の矮小な捉えかたである。したがって経済界はいつまでたっても同じ軌跡を描く現象(為替の変動とか好景気と不景気の波とか)を繰り延べてるだけで、そこに納得のいく次世代のための解は出てこない。いや答えがないからこそ、そこが現役組の新たな食い扶持や言い訳の起点、要するに怠けた不毛にスリ替わっていくのだ。「本当の仕事」は怠惰由来の連続というものを拒否する姿勢である。人や生命と同じことである。そこがちっとも分かっちょらんことの愚昧が、マクロ経済を支えている。これぞホントの「バブル経済」。というか現行の経済そのものがバブルなり。ひぇ~ッ、王様はハダカだったのか。

 

いま、非連続ということに関しとりいそぎわかりやすいのは、「新」の開発による旧の併走的刷新や、暫時の消滅である。モデルチェンジとかアップデートにはじまり、旧来からあるプラットフォームを利用した、電子書籍やIoTの登場などがその例として提示できる(これも先達からの贈り物、「共有遺産」を下敷きにしている)

 

「時代の変化が早くて、ついていくのが大変だ」などという嘆きはよく聞くが、そりゃいままではホントの仕事が少なかったから、変化が遅かっただけだ。それで上に書いたような「新」の登場は、わかりやすい分、数はかなり多いから、それによって現代の変化スピードが速く見えるだけだ。

 

でもこの国土には一億人以上も人口がいるんだから、本当はこれでも変化は遅いんだ。もっともっとコロコロと毎日毎日、変化しててもおかしくはない。というか、みんな変化は毎秒毎秒してるので、その変化の見える「歩幅」がもっと大きくなっても如くはない。

 

あなたが必要とされる別の不具合の是正や、新規の価値観の構築などはかならずどこかに別に、いつだって存在している。そこを順次見つけて、自分の立場をスライドさせていこうじゃないか。その中身のしっかり詰まった動態こそが、社会の流動性や活性化の本当の正体であるべきだ。転職する人はイマドキ多いが、それが個人の単なるキャリア志向、給与の上昇欲の流れだけで決められているのなら、熱に浮かされてるのと変わりはない。それは次世代への継承が極貧な「檻」の中で、永遠に「経済」の捕虜に甘んじる態度だ。

 

大事なことなので繰り返すと、ホントの仕事は次代の人によってぜんぶ乗り越えられるために、飛躍の踏み台になるためにある。この文もそうである。ぼくらは自分の生の消滅と、いのちのバトンタッチを織り込み済みで生活してるではないか。それと同じことだ。

 

 P.S.こう考えていくと、社会的な、つまり現状の公務員的なソーシャルワークで道徳的な要素を含むものは、高次元の人格者の育成という教育的な分野への取り組みに帰結するわけだが、この話題は大きいので、いずれ、また。

 

<了>

 

 

いじめと北朝鮮

 

北朝鮮は日本にばかりミサイルを撃ってくる。中国に対してはもちろん、韓国に対しても、(陸地に対しては)撃たない。なぜか。それは自国と海によって隔てられている外国(しかもいちおう仮想敵国)は、近隣では日本だけだから。

 

それではなぜ海(日本海)なのか。それは日本の国土に届く途中で、ミサイルには墜落してもらわないと困るからだ。そして墜落の痕跡を詳しく調べられると困るから、残骸だかが残ってしまう陸地はダメで、海上に落とすしかないからだ。たとえ日本の領海内でも墜落現場が海なら、紛争勃発回避の言い訳も(かろうじてだが)立つ、そんな計算をしてるのではないだろうか。

 

北朝鮮は、純粋な国威発揚のためにミサイル発射を繰り返してるのではないんではないか。いやそもそも本当に「発射」してるのだろうか。

 

国際社会の緊縛の中で、自国のみで成立していける限界、今世紀における「鎖国」の無効性は、かの国は全部ご承知だろう。

 

そして「鎖国」の悲惨もギャップも、「支配下」の人民にすべて累積していく。この下降構造はいじめそのものだ。

 

(了)

 

情報と情報化の段差がぼくらの居場所だ ~ちがいをみつめることの方法論提示~

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*これ、フレンチトースト。パンの独創的な食べ方のひとつだと思う。味気の抜けた固い古いパンを、タマゴや牛乳で栄養補助しつつ、いかにおやつみたいに食べこなすか、そこら辺の発想がフレンチトーストの原点ではないかと。(本文とは少し関係あり)

 

 

「情報」と「情報化」に違いってあるの?

 

よく聞く言葉に情報と情報化ってのがある。毎日耳にしたり読んだりしてるこれらの言葉だが、その違いは?と改まって考えると何となくボンヤリしてて不思議だ。だいたい「情報」の意味も多様だし、辞書をみてもWikiで調べても「情報」と「情報化」の2つの言葉の定義はバラついている。でもひとつだけはっきりしてるのは、その2つの言葉は同じ意味ではないってことだ。「化」の有無ひとつで、カガミを隔てたような意味の境界線が感じられるのである。

 

情報そのものの意味というか具体例はあとで述べるとして、ここではまず「情報」と「情報化」の2つの言葉の意味合いを比較対照してみよう。ここでいつものように持論をブチ上げると、「情報」は、ものごとの様態それそのものであるのに対して、「情報化」とは、情報の対象化作業およびその結果である。つまり原初には情報があるが、それが文字化や映像化などの対象化を経、媒体に載って流布されるなどしてはじめて人に認識される。この一連の過程が情報化であり、それがめちゃくちゃ多いどころかそればっかりだから現代は高度情報化社会などと呼ばれるのである(例えばクラブDJなんかも、情報化社会でしかありえない職業、技能である)。したがって「化」を抜いた「情報社会」という言葉を想起してみると、これはなにか大事な点が抜け落ちてる欠陥単語のようであり、じっさいあまり聞かない。

 

ここまで述べてきたこの情報および「化」をめぐる考察は、言葉の客体化の議論をしたいわけではない。これは情報化の、人への対置や遠近を指摘したかったのである。つまり情報は真のオリジンであり、情報化は合わせ鏡のその相似形、(本体あっての)影だという指摘である。情報は本質で、情報化は傀儡(かいらい)ということもできる。言葉上での話にはなるが、これは真相なるものが情報化社会には実はな~んにも含まれてないことの端的な説明になろう。「高度情報化社会」なんて聞くと、高級で一流でスマートなハイソサイエティのように思えるが、実際にぼくらの周囲を取り巻くものは、ずいぶん前から空振り、スカ、虚無ばっかりになっているし、またそれらに伴う徒労ばかりに四苦八苦させられてもいるのである。これはまるで虹のたもとを追いかけてはつかみ損ねてばかりの所業である。現代社会とは、情報化というぺらっぺらのコピペ傀儡の渦の中で、正解のない伝言ゲームにアップアップさせられてる環境であるので、こうなるのは必定だ。

 

(余談だがこの意味において、情報化という言葉の発明は快挙である。以前も書いたがこの言葉は林雄二郎という人が1969年発刊の『情報化社会』という著書ではじめて提唱し、使われはじめたものらしい。情報そのものとは違う位相に、情報と似たような別ものがあって、それを認識し、かつそれに「情報化」という名称を与えたことで二項の説明がつくようになった。この意義は大きい。何にせよ言葉のワッカをかぶせないと、思考の輪は回り始めない。それも二輪でないと効力が出ないのです。まぁもっとも情報化という定義は、ぼくがここで勝手に主張してるに過ぎないのだが)

 

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さて、ここまで「情報じゃ、情報が大事なんじゃ」と言ってきたが、今度はその正体に関して考察してみよう。思うに情報とは、一般にイメージされる数式だとか文字列ではない。またプログラムやコマンド、アルゴリズムやプロファイルなんかでもない。それらは情報が情報化されたあとに生じたカケラとか余禄である。では大元の情報とは何か。それは真にオリジナルな「事態」を示唆する言葉であろう。そう考えると具体例としての情報の最もたるものは生命体、なかんずく人の「存在」「遺伝」「真理」「魂」等々・・・という考えに行き着く。これこそがコア中のコア、すべての発生と変化の源流たる究極の事態、そのカタマリであるからだ。情報は、人である。

 

それに対して、対象化された相似形としての情報化、その権化はなにか?それは言語や宗教、学術に制度、法律や貨幣といった、人と人との間を取り持つモロモロの、そしてのちには人を乗っ取り支配・操作してしまう勢いの、後付け影のことである。

 

だがむしろこの「影」の方を「情報」と取り違え、疑いもなく信じ込むところから、人と社会の間に異和や軋轢が発生してくるのではないか。

 

(余談だがこの構図こそは、傑作アニメ映画「攻殻機動隊」(1995)の底流をなす世界観、監督押井守の生涯テーマである。現実と虚構の差をあいまいにする押井独自の映画話法は、本質をあぶり出したい彼の想念がかろうじて産み落とした「ひずみ」「よどみ」のようなものに感じられるのだ)

 

現代のようなコピペ全盛の時代においては、情報の真偽は一次情報にまでさかのぼって検証するようになどとよく言われるが、これは「情報化」の位相まで進んだあとの話であるから、一次つまりオリジナル(と思われてるが実は非オリジナル)までさかのぼったと思っても、まだ情報化の枠内であって本家本元には到達していない。一次とかソースだと思ってても、そこも傀儡やマボロシの領域なのである。しかもその領域は、すでに恣意性を含んでる可能性のあるゾーンである。対象化にはノイズが混じるものだからだ。

 

例を挙げると例えば恋愛。恋愛の話を百万回聞いても、それは情報化の波に洗われてるだけであるのに対し、自分が経験するたった一回のリアルな恋愛は、それら事前の見聞をはるかに凌駕する。これが「情報の起源」である。で、そのリアルな恋愛を対象化し、例えば「大恋愛」「熱愛」などと安易にも名づけて5chなどに体験談をアップしたら、それが「情報化のはじまり」である。言うまでもないが恋愛には大も小も温度もない。だから、たった一文字「大」や「熱」という形容を追加しただけで、傀儡は本筋からわずかに逸脱し始める。さきほど「正解のない伝言ゲーム」と言ったが、それはこうしてスタートする。その後におけるこの種の錯誤の重層的積み重なりが、人に何をもたらすかはここで申し上げるまでもない。

映画「燃えよドラゴン」ラストシーンにおける「鏡の間での決闘」みたいなものである。敵だと思ったら鏡に映った姿だったという蜃気楼、その幾重にも連なった仮想のイメージ。

 

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さてここで情報と情報化の構図をひとしきり説明したところで、この図式は何かに似てるなと思った。つらつら考えるにどうもそれは音(サウンド)の概念とおなじなのではないだろうか。

 

だれもいない森林の奥で木が倒れたら音はするのか?という問いと同じ。つまり、木が倒れれば空気の振動(=情報)は生起するが、それを音と認識する(=情報化)のは人間だけである。従って誰もいない森林では「音」はない。いや正確に言えば、音を「音」と認識する主体が不在であるがゆえに、音は存在し得ない。

 

このことから察するに、情報は情報化とそれを等分に評価する主体があってはじめて存立する。ここで話はもう一段、上位階層に足を踏み入れるが、この評価にかかわる一連の考察過程を、知性と呼ぶのである。知性は磨いてなければならないが、磨かれ得ぬそれは現象体の情報化の方に、いとも簡単に引き寄せられて固化する習性があるようだ。まるで砂鉄と磁石のように。情報は希少な上に見えづらいが、情報化はきわめて多彩に存在する上に、いちいち目立つ。

 

しかしこのとき留意せねばならないのは、言葉(情報化村に所属する要素)でしか論理を構築できないことに象徴されるように、情報化を方法論として駆使せねば、人は何も見ることができないってことである。ぼくらは情報化の際にこぼれ落ちたカケラ(それを名付けるならば「情報化情報」!)をたんねんに拾い集め、ひとつひとつそのカケラの優劣を審議し、いいものだけたぐり寄せ、曲がりくねってでもブカッコウでも、とにかく自分なりの小道をこしらえてからでないと、情報の本丸にたどり着けない。つまり情報と情報化情報(笑)は、逆説的に相互依存しており、いうなれば情報なくしては情報化はなく、また逆に情報は、良質な情報化を通してしかその姿は見えない、そんな仕組みになっているのである。

 

「こんにちの高度情報化社会においては云々~」のような、いかにも既知既成の一般論には、詳しく検分すれば、実はこうした齟齬が隠れている。一般論は、聞かされればいちおうは納得して話は進むが、はて情報とは何ぞや?情報化に意味はあるのかと疑念を抱かば、とたんに停滞が訪れる。

 

だがその疑問による停滞が、自家薬籠のようだが、はからずもその情報の本元に歩み寄ることのできる、たったひとつの道なのだ。そこで道標になるのは、上に述べたように情報の蜃気楼の方である。知は疑からはじまる。疑とはすなわち人の営為である。まぼろしすらも栄養にしながら営為はすすむ。

 

情報と情報化のように、あるいは音の発生源と音という現象認知のように、いっけん同じように見える認識を腑分けすることで止揚し、そのひとつ上を行く本義に迫るのは、人の持つすぐれた能力の一高峰である。人は、ひとりひとりが異なる情報所有者であり、全宇宙の中で唯一のオリジンである。情報化の断片、ススだらけになってしまって極端に見通しの悪い世間を、フォグライトどころかスーパービームでスパーッと切り裂き、キリリと孤高に照らす真の情報と知性は、誰であろうあなたしかいない。

 

照らす光があれば影がある、作用があれば反作用がある、男と女がいる。そこを疑念し、隠れてる二項をかき出し分け入ったり、場合によっては二項のうち一方を仮設し見据え、等分に吟味すること。人の知性はそれだ。この文章もその試みのひとつであり、日本語では「分かる」と「分ける」と「別れる」が全部似ているのは、そういうわけだ。

 

<了>