お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



人生はやったもん勝ちと、思った時点で「負け」

人は産まれた瞬間から余生をこなすだけの存在だ。将来を見通すとか、先を読むチカラよりも、今の今日をこの瞬間を、しっかりこなしていく着実な推進の方が、何倍も大事である。そうした着実な遂行を経ていくことで「将来」がおのずから蓄積・志向されていく。未来とは、結果としての未来があるだけであって、それはいつにまにか溜まってる財形預金みたいなものである。「人生を切り開くチカラ」などというまことしやかな説教が時にウザ苦しく響くのは、それが未来志向でなく単に薄っぺらい論理を引っ張ってくるだけの枕詞だと分かっているからである。

 

(したがって過去としての歴史は、個人のそうした経験律の蓄積を本当は指すのであって、秀吉とか竜馬を研究するのなんてのは、偉人伝やヒーロー伝説に与する態度でしかない。また、戦争や事故の歴史は、正しくは事件史などと呼んで、そうした「正当な」歴史学とは切り離して捉えるべきである)

 

いまの時代の多くの職業人においてはスケジュールは3ヶ月先まで埋まり、キャリアプランやOJTなどで目標設定させられ、その進捗管理も適宜求められる。人によってはそれらと向き合ってるだけで日が暮れてる人もいる。でもそれは作業領域での実務手続きであって人生の本体はお分かりのようにそんな行動予定チックなものでない。

 

日々の仕事は、自分なりの仕事律を打ち立てて、それを淡々と、いまここで確実に遂行していくことである。必要以上に力んだり、没頭したり熱中したりという態度は、どちらかというと「作業」の分野で必要とされる、その程度のことである。作業分野に拘泥することが人生最大のテーマのように力むひとがよくいるが、それでは周囲は困惑するだけだ。世の悩み(人間関係など)の9割が、この種の軋轢である。

 

また、留学やなんとか塾とかオンラインセミナーとかはよそへの委託であってせいぜいが枠の中でのお勉強であるし、その中でのあなたは往々にしていいカモである。現場は今の自分の行動にしかない。とりあえず外に出れば何とかなりそうというのは楽観である。

 

自分なりの仕事律、と書いたが、それに関してもうひとつ思うのは、自分のスタイルがしっかり確立できてはじめて、守りにも入れる体勢が取れる、ということである。世間では「人は常に前進、変革、変化してなくてはいかん」とか、「守りに入るのはよくない」などと声高に語られる。それも理屈のうちではあるのだが、実践ではディフェンスとオフェンスは入り乱れるのでケースバイケースである。

 

ご存知のように、この世の中は自分の思うようにいかないことの方がはるかに多い。だから両輪が必要だ。すなわち、変わらない自分を打破するとか、同じところに固定してとどまっていてはいけないという考えはキープしつつも、自分のスタイルという退避場所も同時に持ってるのが、バランスが取れてていい姿勢だと思う。だいたい、しっかりした自分がなければ定位点がなく、ふんばりも効かない。いま、ここで、自分の定位点でものごとをキメていかなければならないのだ。でなければ外にふらふらと浮気し、留学やらビジネス塾やらオンラインセミナーなどといったさっき書いた「外部のおなぐさみ」に、からめとられるばかりである。

 

この「定位点」が、いわゆる信条とか信念とか、矜持といったものであろう。またはじめからそういう態度であればこそ、自分で自分を修正・矯正していくとかができる。例えばライバルが新しいことをはじめたら「ほぉ始めやがったな、ほんじゃコチラも何か別の何かを…」というような形で、それまで誰も踏み入れたことのない、もしかしたら実のある仕事を結晶させる動因になるかもしれないのである。

 

「1度きりの人生、やりたいことをやれ」と世間では無責任に言い放つ。とんでもない話である。人には主体レベルで「やりたいこと」があるのでない。そういうのがあるような気にさせられてるだけだ。そうではなくて人には客体存在としてやるべきことがあるだけであって、それは未だに名前が付いていない領分のものである。人はそこに携わらせて頂くだけだ。参加させてもらうだけだ。それは「正しく生きる」とか、そんなふうにしか表現できない類のものだ。起業とか、移住とか、やりたいことなど名前が付いてる時点でもうすでに確立された領域なのであるから、たいていはお遊び程度のチャチなものである。自分語りがウザいのと根は同じだ。うぬぼれるのもエエ加減にしたまえ。

 

日々やるべきことを堅実に、淡々と処理することほど、将来のため有益な踏み台はない。

 

<了>

 

夏カゼの治し方

不覚にも夏風邪をひいてしまった。

 

猛暑の続く先日、たまたま雨の日があり、気温はやや低くなり水不足にも恩恵となり、それはまさに恵みの雨ともいうべきものだった。だが雨が上がったあと、かわりに置き土産のように襲来したのはジトッとした湿気であった。まだかなり残る暑気とブレンドされたそれは、室内でついうたた寝してたぼくの背中に、じっとりと変な汗をかかせたのだった。

 

暑いなら暑いままに暮らす方がかえっていいのが人の健康だが、えてしてこういう空気の変化が体に変調をもたらすものだ。「今日は気温が低いから」と、クーラーを切り窓も開放していたのが、またよくなかった。

 

ぶるっときた。背中の汗が悪寒を呼ぶ。すぐにTシャツを替えたが遅かった。案の定夕方になるころにはセキ(それも重いヤツ)がとまらず、体はややダルく、微熱もありそうな感じ。何とかかんとか食事を済ませ、風呂にも入らず早めに床に就いた。だがこの不調は、そう簡単には退散してくれなかった。

 

翌日の朝も症状は同じである。しかたがないので今日は仕事せず、治療に専念すると決めた。早めの対処が肝心である。

 

体調不良といえばすぐ病院という人がいる。幸いにして大病の経験のないぼくはというと、病院に行って診てもらうのはよほどの場合でないとしない。飲み薬をもらって服用しても、効いたためしがない。カゼや微熱くらいだと、人によっては病院で点滴を打ってもらうことで回復を早める場合もあるみたいだが、そうやっていわば「不自然に」治すのは、体のどこかに歪みが出そうで、まだ打ってもらったことはない。そういったわけで、ぼくは自分の治癒力で出来る限り治す方針だ。この選択が使えるのは健康であるからであり、たいへんありがたいことだ。

 

さて、カゼDay2。朝からへヴィーなセキがひどく、つらい。喉も痛いので、まずうがい薬でうがいしてノドスプレーまでする。夕べから着用してた下着を替え、顔と体を蒸しタオルで拭き、おかゆや梅干をいただく。塩分も少し摂る。

 

さて治療開始である。といっても寝るだけだが。

 

まずお湯を、飲めるような状態にして寝床に用意する。こまめに水分補給をして、いい汗をかくためである。水ではなくお湯にしたのはなんとなくであって、大した意味はない。それよりも肝心だと思うのは、風邪(発熱)の治療は汗への取り組みだ、というぼくの考えである。悪い汗で崩した体調を良い汗で駆逐するのが、カゼへの対処の基本である。そうすることで熱も平熱に戻り、リンパの流れみたいなのも正常になり、その結果としてくしゃみやセキ、鼻水などのシグナル的諸症状は緩和改善されていくのである。

 

こういうのが治癒の本来的順番というもので、市販薬などはそのシグナル症状の「部分」に対処するものに過ぎない。「部分」に効いた「結果」判断を基礎に、いろんなその他の考慮を経て定石の治療や、定番の薬になる。これがいわゆる対処療法の完成過程ではないだろうか。この「部分」のオフィシャル版・集合版が内科の病院ということになろう。これはけなしてるのではない。人の体など未だミステリーばっかりなのだから、今までも、おそらくこれからも、結局医療(特に西洋医学)は「部分」からアプローチして「結果」を積み重ねていくしかないであろう、という理解である。

 

ただやはり部分への対処は、本道の治療(人間の免疫、抵抗力、生存本能)にくらべると脆弱である。自分で治すのはその王道に100%頼る行為である。つまり、自分が治すという思い上がりではなく、自分の所属してるボディの健康回復力にすがらせていただく、ということである。

 

さて肺も破れんばかりにゲホゲホしてる、病2日目午前の僕であったが、夏なのでタオルケット1枚に、サナギのようにくるまって横に臥す。クーラーは入れず、窓は開けただけ。ちなみに今日は昨日の雨とは違ってよく晴れた真夏日になった。セミがうるさい。しばらくするとわざわざ窓近くまで寄ってきてミンミンしやがる。ハトなどもそうであるが至近距離における動物や昆虫の、あの生命力の全放出のような、ねぶるようなウルサさはちよっと比類がない。いま、その渦中に僕はいる。

 

しばらくするとセミはどこかにいった。ホッとした。

 

セミの声以外はヒマなので本でも読みたくなるが、我慢する。肩を出したりするとあっというまに冷えてしまうからだ。タオルケットの中で蒸し風呂状態になって発汗することが大事なので、たとえ足首のようなパーツでも、外に出して冷却しようなどとしてはならない。全身でこの熱さとじっくり対峙することが、自分の風邪としっかり向き合うことになるのだ。

 

サッカー用語で言えば「耐える時間帯」とでもいおうか。突破口がみつかるまで、辛抱強く待つのである。

 

さて午前中はうつらうつらしただけで熟睡には至らずであった。セミのせいだ。したがって大して汗もかけなかった。悪寒はさらにひどくなり、セキも大きく深くなり、心なしかフラフラするようになってしまった。これもセミのせいだ。

 

人体というものは湯治などにおけるいわゆる好転反応のように、治療してるつもりでも最初からはうまくいかない、いやむしろ、いっけんかえって悪化してるようになるものらしい。つまり何かする過程にかならずフェイントや後退が仕組まれてる。このあたりは病気も人生も同じである。ニクイねと思うしかない。

 

軽い昼食を摂って水を飲んでうがいして、気合を入れて再び床に向かう。念のため冷水で絞ったタオルも額に載せて、頭寒足熱の簡易版である。明日には朝から活動できないといけない、今日中になんとかしなければ。もし明日も不調ならあれしてこれしてあれは人に頼まなきゃ、でもそれならその前にあれを段取りこれを指示出しして…などと余計なことを床で考える。

 

こうした余計なことが治癒への集中を妨げるのだ。

 

焦れば焦るほどなかなか寝付けない、そんな耳をあざわらうかのように午後のセミは、いよいよやかましく、短い夏を謳歌するのであった。

 

結果午後2時から4時までの2時間、かなり寝られた。起きると汗が全身から噴出しており、Tシャツはビッチャビチャ、タオルケットも汗吸い重く、寝床も湿っていて驚いた。思わずラブホの清掃スタッフの苦労に想いを馳せてしまった。

 

しかし、明らかに気分が良くなっている。良い汗を媒介にして、体内でデトックスが正常に行われたという、しっかりした実感が残る。男が交尾をするとき、それほどは運動してないのに発汗量や発熱量が妙に多いのはなぜだろうと思っていたが、こういうことかと思い至る。つまり、排泄には意外にエナジーが要る、ということだ。またしてもラブホの清掃員に(以下略)

 

さて割りとすっきりした自分。もう早くも峠は越えた感覚である。濡れたものはすべて取り替え、濡らしたタオルで汗を拭く。これが清拭っていうんですね。

 

こうした中で思ったのは、風邪退治には汗も大事だが、睡眠とセットになって恐らくはじめて、悪い汗を追い出し体温を冷ます真価が発揮されるのだ、という経験である。意識を眠らせておかないと「あたしこのまま死ぬんじゃないか」とか、魔女の宅急便のように小さい自己が余計なことを考え出したりする。それがジャマして体内の自浄作用がすすめられない。だから、睡眠でいったんどいてもらう。自浄が済めば意識に対して起きてもいいよとサインを出す。このように人にとって無意識野とは、自意識なんかよりはるかに広大で宇宙サイズなんである。

 

また体温が上がると体感はホットにならず、逆に寒気がするというこの人体メカニズム。これに関しては医学的説明はあるみたいだが、この逆説の中にある「背景」にこそ、生態の命の端緒がぜったいあるはずなんだ。しろうとの偉そうな考えに過ぎないが、医学がどんな段階であれ単なる対処療法を越えはじめるのは、この「背景」の前に謙虚であることがスタートだろうと思う。

 

…と、こんな余計なことが考えられるほど、僕は回復した。ぶり返さないようにだけ気をつけて(例えば入浴のあと、油断しないでしっかり体や髪を乾かす、とか)、ぐっすり眠った。もうセミもどっかにいったみたいだ。

 

ぼくの夏風邪退治は、こうして終わった。思えばセミと1日中会話してたみたいなものだったな。

 

<了>

 

虫はなんでも知っている。

私とはなんなのか

 

これをひとりで想ってるうちは「私」は出てこない。

 

自分がひとかわ剥けた、とか、成長できた前進した、という実感をもてたときは、脱皮したあとである。そのとき自分は「旧の自分からハミ出た、自分でないもの」になりかかってる。だから振り向けば過去。脱ぎ捨てた殻。

 

(いまはそうした脱皮が内発的自動的なものでなく、学生の身分推移や就職、出世などの、「社会的」すなわち外的志向での属性変化に100%依存しているから、人生はむなしい一方なのだ。)

 

自分が飛躍するとき、参照元になるのは他者だ、つまりあなただ。

 

自分以外の人に触発されて、自分は別の自分に発展する可能性を持つ。相手の表情を見る、肌がふれる、そんな何気ない瞬間にも、その可能性はひそんでいる。その可能性をつかんだとき、人はどうなるか。

 

鳥肌が立ったり、ピンときたり、ぞくぞくっとなるのである。福本伸行の描くところの「ざわ…」ってのの、本当の意味がコレだ。

 

また、こういう作用を引き出すのに必要な「あなた」は、具体的な存在でなくてもいい(このあたりが人間にしか備わってない感取能力だ)

 

つまりあなたの言葉が、あなたの書いたものが時空を超えて私を立たせるときがある。畢竟これが本来のメディアの機能である。これに比較したらいま世の中の100%を占めるいわゆるマスメディアなど、ひまつぶしに伍たるものだ。

 

そして「あなた」はわたしの中にもある。いわゆる内なる自分だ。

 

昆虫の変態ってあるでしょう。幼虫からサナギになって成虫するというアレ。その全行程で虫の形体がまるで違うこの驚異こそが、内なる自分が、あなたが、自分の中に埋まってるイメージだ。虫の変態は、サナギの状態なんかが特にそうだが、外殻は平静さを保っていながら中身はドロドロに溶解しててカオスのようになってる。しかしそれでいて、次の組成を秩序立てる「何か」が、とんでもなく超越的なアルゴリズムで内部進行している。というより次の段階の生命体に進むため、捕食されようが何しようが、じっと耐えながらじっくり時間をかけて一回「壊れている」。

 

これ、ぼくもあなたも同じなんだ。

 

人は内面に無数の自分、あるいは無数の他人を抱えている。これは突拍子もない意見に聞こえるだろう。だがぼくはそう確信している。かの偉大なるトーマス・マンも「魔の山」でそう書いてるし、何より人を含む生命は、海から、羊水から誕生したからだ。海には時間的にも空間的にも仕切りはない。ぜんぶつながっている。陸地でさえぎられてるように見えても、雲を発生させ、雨を降らして海は越境する。海とは、生みであり、膿みであり、倦みでもある。血液も羊水も、海水と同じ成分。つまり生物の内包する体液は、すべて海のもつ、非境界と越境性のシンボルだ。

 

だから要するに、あなたの個人性は、あなただけのものじゃない。虫のハナシをまたするならそれはアリと同じだ。アリは一匹一匹が個体であり、同時に個体が全体である。個体の集合で全体が織り成され、成立してる、そんな種の具現である。そしてそのことを一匹一匹が謙虚に受け止め、向き合い、そして充分に「無」意識している。

 

したがって個々の蟻に自己主張はカケラもない。2割の働きアリは、残り8割の働かないアリを非難しない。ねたむことに時間を費やさない。働きアリは、やるべきことをやるだけだ。残りの8割が意味する、「働かないことの役目」を知悉している。だから8割の働かない組にとっても、逆の意味での焦りはない。

 

繰り返しになるがこのように、あなたの個性はあなたに属するものじゃない。みんな知り合いであり親戚であり、どこかで必ず会ったことがある、あるいはこれから会うことになってるたぐいの。死は、また逢えたねの養分だ。

 

わたしも、大いなるあなたの一部である。一言も言葉を交わさなくても、あなたはわたしを踏みつけにして、その上でこそ真性のあなたは、本格的に大いに花開くのである。

 

人の誕生。受精に至るたったひとつの精子は、残りの1億ほどのライバル精子に勝利するのでない。その意味するところはまったく逆だ。現象がたとえ競争に見えても、それはひとかたまりの全体意志として、精子総体で受胎をうながしせしめたためであり、その結果があなたでありわたしの、偉大なる生誕である。最後の精子など、たまたまその役を仰せつかったにすぎない。その過程は「さっきまでのあなた」「過去の自分」を振り払う行為と、寸分違わない。

 

それが人の行うべき、感取すべき唯一のことであって、世間に蔓延する「やりたいこと」や「熱中できるもの」もしくは「ほんとうの自分」や、甚だしくは「世の中をより良くしたい」など、外部へのないものねだりのヒマつぶし考えである。ちゃちい。

 

身の程をわきまえるような謙虚さは以前より、儒学的礼節や日本人的価値観(和を尊ぶとか滅私奉公とか)の面から推奨されている。それは「自分の人生は自分のものなんかじゃない」ってことを戒めるのに、大変効き目のある態度だからである。

 

いつまで小さなわたしにとどまっているおつもりか。サナギならさなぎらしく、変態を待て。

 

<了>

 

ひまつぶしの意味変化 ~ポケGOとトランプの間~

f:id:fotobiginesu:20160807010825j:plain

f:id:fotobiginesu:20160807010828j:plain

Pokémon GO』公式サイトより

 

ひまつぶしの意味変化

 

70年代の若者を振り返ると、室内遊びの光景は牧歌的であった。仲間うちであつまって何かして遊ぶとなると、当時のメインゲームは「トランプ」だった。

 

覚えておいでか?トランプゲーム。地味である。

 

「トランプ」、これは大統領候補の名ではない。神経衰弱やババぬき、大貧民といったカードゲームの方のトランプである。70年代当時も、もちろんほかにゲームがあったが(マージャンや花札、大掛かりなものはビリヤードなど)、なんと言っても娯楽の王道はトランプだった。大した道具もお金も要らず、場所も選ばず電源も不要。誰かが一組用意すればそれでみんながワイワイ参加でき、勝ち負けは偶然に依存するのでストレスは強くなく、プチ充実的に健康的に老若男女みんなが興じることができ、遊ぶたたずまいはつつましく、微笑ましい。それがトランプの大きな特徴であった(ポーカーのようなギャンブル要素の強い遊び方は除く)

 

トランプゲームのルールをひとわたり知ってることは、当時の若者の基礎知識、一般常識であった。また知らない人に対しては、ゲームに参加させながらルールを説明することが、人に物事を教える過程の相互教育にもなっていた。時には教育者がおらず、ゲーム進行の観察等から自らルールを学ぶ必然に迫られることもあったが、それはそれでいい素養になったものだ。

 

また、遊び方も伝統的な手法に固定化するだけでなく、新手の遊び方も開発され、そうしたものは時間をかけて全国に浸透していった。みんなを受け容れる開放性と、新手の遊び方も採り入れる進取の精神との、過密すぎない、人間らしいリズムとバランスが、トランプ界(そんなものがあるか!笑)にはあった。

 

…しかしいまは2016年。隔世の感じがする。現代はそんなかっタルいトランプ・ゲームなど誰も見向きもしない。大富豪など、ゲーム名称で通じる方がマレである。

 

1969年生まれの当方は、そりゃトランプは少しはやったが、特に没頭もしなかった程度であり、トランプで遊んだ最後の世代であっただろう。中学生のころには、遊びとは、もうテレビゲーム、ゼビウスなどのアーケードゲームにお金を投じることにスリ替わっていた。いまならそう、課金のあるソシャゲなど。とりわけ「ポケGO」である。

 

近代日本の娯楽は、このように、ほぼ無銭から有貨への変遷であり、お金の巻き上げられ方(?)も巧妙に、多額に、重層的になる一方である。これが「経済」とやらの要請結果であるが、そんなひまつぶし経済など、当方まっぴらゴメンである。

 

いまの光景、つまり仲間で集まりながらもゾロゾロとほっつき歩き個々にスマホの画面に釘付けになり、せっかく外にいるのに見ざる聞かざる状態で、それでいて「なつかしのキャラ」と会えるとかぬかして目の前のあなたには目もくれず(自分以外のものとそんなにかんたんに「出会える」ものか!)、ただヘラヘラしてるだけの空疎な笑顔でテメエの端末世界に強制没頭するポケモンGOの流行を見るにつけ、一方でトランプの持つ平易性、ノンビリまったり感、かけひき性、コミュニケーション性、ライブ感などなどといったアナログ的価値観にオジサンは想いを馳せ、黙ってうつむくのである。

 

みんながポケモンGOに飽きたとき、新手のアプリに疲れたとき、そのときこそ、トランプゲームの復権はあるかもしれないと感じる。70年代もいまも、人は変わりがないし、手段を踏んだタルさの先にある「共に体験する」価値観は、野外フェスやキャンプに参加するのと同質のものだからだ。

 

<了>