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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ほかのものに己を仮託するというブルース音楽の話法は、個人至上主義を上回る思想になる。

*悪魔と邂逅した伝説を持つ唯一のブルースミュージシャン、ロバートジョンソン。ハットのかぶり方もスーツもキマッてる。音は陽気な呪文のようだ。

 

 

youtu.b

*Howlin' wolfの傑作アルバム「Moanin' in the moonlight」。近代ブルースの文法を全部採り入れたバラエティある音楽性。音の手触りはあくまで質素で抑制の効いたもの、そして実にマガマガしいうた。単色でありながら豊潤な世界だ。

 

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 憂さを晴らすのではなく、憂さを深める音楽がBlues

 

Hoochie Coochie Man

Red House

Hoo Doo Man Blues

Catfish Blues(Catfish…ナマズ)

 

上に挙げたのは米国で生まれた偉大な音楽スタイル、Bluesの名曲の一部である。作者はいづれの曲もあまり重要視されない。いろんなひとに歌い継がれてきた。

 

Bluesは1800年代後半に発生源流があるようで、日本で言えば幕末。歴史の長いジャンルである。したがっていろいろ伝説的なプレーヤーがいたみたいだ。ロバート・ジョンソンなんかは名を残せただけで相当有名な部類だろうし、未分化の時代はもっと無名の有象無象たちが米国各地にいっぱい居たに違いない。専属の音楽師みたいな形態になったのは、ずいぶんあとのことであったろう。

 

シカゴとか南部とかデルタとかの、歴史が固まってからのブルース界しか筆者は知らないが、その判断から言うとブルースミュージシャンはだいたいみんなサウンドもルックスもファッションも似たようなものであって、1950年代くらいまでは演奏者も透明人間というか、著作権未満(うたはみんなのもの)という価値観の中、トラディショナルソン グを継承するうたうたいという謙虚なたたずまいに終始していたと考えられる。演奏に関しても、たまり場で「流し」、1曲1曲歌うスタイルだったろうから、パッケージ化された流通形態にはなじまなかったに違いない。

 

Bluesの歌詞は類型である。そう大胆には自分勝手に歌詞をつけられないジャンルであり、スタイルに恭順するよう求められるのが、退屈といえば退屈である。そこではベイビーやハスラーやギャンブラーといった何か別の者への「想い」が歌われることになっている。ただそれは無邪気なワナビーや、おめでたいあこがれとは違う。なぜなら歌われる「想い」はウジウジ、じめじめ、グダグダとクダを巻くための「素材」であるからだ。

 

bluesとは何かというと、そうした「素材」をつかった憂鬱や疲労の、音での体現であろう。その独特のメソメソしたような曲調からぼくなどは、ブルースは奴隷時代に抑圧された黒人たちの、服従状態を慰撫するソングであり、コットンフィールドでの労働歌ジャンルであって、お互いの傷を舐め合う感情がベースになっている…と思っていたが、どうも最近はちがった解釈が芽生えてきた。

 

あれは憂さを個において晴らすのではなく、憂さをみんなで深めていく音楽なのではないか。憂鬱や徒労を確認してそれを対象化し共有化し、身に着ける音楽なのではないか。パターン化した歌詞とマイナーな曲調は、たぶん自分のなかからそれを掘り起こしていくための秘策だろう。そして演奏で確認や対象化を行い、それだけでなく、音出しを通じて演奏者が憂鬱や疲労そのものに純化していくこと。また、自分が単なる一介のスピーカー、伝達メディア、媒介する器官となり果てること。すなわち個の「すり減らし」が起点となって他と多への伝播を志向すること。それが表現の深化と拡散そのものになる、と。そこを目指した音楽スタイルだったのではないか。従って(単純な様式だから)ギターと声があれば技術要らずでほぼ誰でも吟じることができる、そんな無記名性がBluesの前提であった。

 

伝統という全体の気の流れに、自分を開示し同化していくこと

 

自らがそれそのものになる…これはあらゆる自発的な表現や運動の根底をなす要求である。舞踊は動態の意志であるし、スキージャンプは風への同化であり、フィギュアスケートはスピードと舞いの中に自己を溶かしていく作業だ。別の何かになることで、逆に自分が見えてくるし、その過程で何かの要素があなたにも届く。それが全体性の獲得に資するのだし、本来のメディアはそこを媒介するものである。

 

ただそのまえに、確認や対象化がある。音楽としてのBluesとて例外ではない。

 

サウンド面からブルースを考えた場合、それは「想い」を出発点にしながら自らを「別のもの」への擬態化の中で忘我せしめる方法論である。その実践の過程で自分が消えて憂鬱や疲労そのものになる。それで「確認」することはすでに述べた。

 

その忘我状態をアシストするためには、歌詞だけでなくあの一定の形式、コード進行に則った音階が手続きとして要請されることになっており、それは自分が生まれる前から先達たちによってそうなっている。伝統という全体の気の流れみたいなものに、自分を開示し同化していくことで「共有」に参加させていただくのだ。そこらへんには小さな「自分」の介在する余地はない。そうでなければ「ハウリン・ウルフ」や「マディ・ウォーターズ」なんて芸名で活動しようとする発想は、出てこない(あれはあれでカッチョいいが)

 

(余談だが同じような時代にゴスペルというジャンルもあるが、あれは騒々しい集団ミソギみたいなものだろう。神に向かって歌うことにみんなで参加するのは、たぶん真の共有化ではない。全員がいても、ひとりひとりは神の方を向いてるだけで横に拡散はしてないからだ。逆にひとりで全部やる純粋素朴なBluesの方が共有の本質を掴んでいる。だからゴスペル界からはときどきスター歌手が現れて、世俗的だが限定的な「成功」を収めるが、Bluesミュージシャンは「成功」とは無縁である)

 

かくも柔軟性に富んだ「スタイル母体」としてのblues、そして今

 

さて戦後の近代bluesは、エレクトリック楽器とレコード複製技術の、両面からの本格的な普及発達と、商業や流通機構の隆盛により、白人の子供たちによって発見され真似され、ロックの母胎になったり、例えばジャズのような別ジャンルと融合したり破壊されたりした。ほかの音楽に比べてブルーズだけが突出して、めちゃくちゃ手を加えられたり参照されたり解体されてきたように思える。日本の演歌にすら、擬似ジャンルとして取り込まれたくらいである(青江三奈「伊勢佐木町ブルース」など)。それは元がそれだけ透明な「素材」だったからではないか。

 

透明性。そう、それを土台にかずかずの「発見」がなされたのだった。つまりBluesの擁する古典的類似性に対し、自分なりの色を付けたりアレンジしたり、変革を加えることが、それだけで自己の表現になりうるという「発見」である。Bluesとは、かくも柔軟性に富んだ「スタイル母体」であった。自己を溶解していく受容体として、優れたスタイルを元々もっていた点がここで生きた。なぜなら「型」があるだけであとは透き通ってて自由自在に染まるからである。俳句のようなものだ。様式の発明は著作権利概念の超越を志向する。

 

しかし、50年代以降は世界の商業化近代化均質化が進み、悪魔に魂を売る交易の可能なクロスロード(ロバートジョンソンのCrossroad伝説)なんぞは一笑に付される時代になった。憂鬱や徒労は依然として人々にのしかかっていたが、テレビやドラッグ、キャンプやカタログ雑誌などのイージーな娯楽で、そうしたものをゴマカす時代が到来した。「それそのものになる」ことで深めながら解消したり共有したり発展したりなんてのは、まったく時代遅れの手続きに後退した。その構図は実は、人種差別とはまた違う、別の大きな何かへの、人々の奴隷化のはじまりであるのだが。

 

その段階でブルース音楽がやっとこさ獲得したのは、ほかの音楽ジャンルではとうに当たり前になっていたプレーヤーの実名性である。

 

演奏者主体でBluesが愛好されるようになったのは、1950年代からであろう。ライブと同じくらいかそれ以上に、録音過程が重視されるようにもなり、演奏者側もBluesの典型に閉じこもったような、微妙な差異を鑑賞するような録音物ばかりになった。そして流しの伝統はほぼ潰えた。つまりBluesは自己目的化しはじめた。そしてそのまま現代まで至っている。いまやBluesは、日本の古典芸能と同じようなポジションに居る。

 

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さてブルースが記名という個人主義に染まったとたん、骨抜きになってしまったというこの考えは、自分で言うのも気が引けるが示唆的である。ぼくらは個性や個人というものを尊重すること、例えばゴダイゴの「ビューティフルネーム」の表現する、それこそゴスペル的祝祭性が、人類を幸福にする最新モードであると考えていたのだ。しかし欧米から輸入してきたこの個人至上主義は、民主主義と同じように、もしかして無効なのかもしれないのだ。いやそれどころか新たな災い、奴隷制の最新型ニューウェーブなのかもしれないと疑い始めている。みんなすばらしいイデオロギーだと軽く肯定するものというのは、「祭壇」という1方向のみへの憧憬であって、それは実は大いなる抑圧の裏返しなのではないか、というひそかな確信である。

 

以前にも書いたが、人は全員そのバックボーンに、見えない普遍を抱えている。個人個人はその大いなる普遍の出先機関にすぎない。その普遍は、全動植物の進化してきた意志、遺伝のエネルギーやメカニズム、地球の公転自転の原動力などと同じレベルものであり、そこらへんの草木にだって宿ってるものだ。いやひょっとするとそれらよりもっと巨大なものかもしれない。ただいづれにせよ、目に見えないものである。

 

人の生誕と生存とは、自分なりのその普遍を体現化していくことであり、その普遍のバトンリレーが、人類の総体であるはずだ。そして子供の誕生は、新たな普遍の担い手が登壇する可能性である。そして個体の死とは、大元の普遍に還ることだ。

 

人は普遍というとんでもない地盤の上に咲いたお花か何かであり、その二層構造の上に立脚してる。お花は勝手に咲き、きれいで目立つ。茎や葉や根で支えられてるが、そこも見ようとすれば可視できる。そしてお花は同じものが2つとなく、美しさや華やかさ、大きさを競い合いやすい。人生なるものはそのお花のごときものであるが、お花の真髄は花弁ではなく花粉であり、それは肉眼で見るには小さすぎる。

 

ここ数千年くらいの人類は、花粉の存在には少し気づいていたが土壌には気づかず、ドカドカと花粉も土も踏みにじるばかりの歴史であった。特に宗教の発生と貨幣の登場、そして産業革命あたりでその踏みにじりに弾みがつき、西洋での個人主義の台頭が、普遍の埋葬にトドメを刺しつつある。なぜなら見えやすい個人性を見ることだけにこだわると、花びらしか見えてないことになるからだ。目を凝らしてもせいぜい見えるのは花粉である。花粉は花粉で大事だが、しかし何のため花粉が存在するか、花粉の存立基盤は何なのかという根源的問いが、もっとも肝要である。個人主義は、ミーイズムとかエゴイズムのようにネガティブな方向に先鋭化しない平明な状態であっても、そのような錯誤を生じさせる契機をはじめから孕んでいるような気がしてならない。

 

いま正しく生きるとは、自分だけの損得や勝ち負けを見限ることである。ビジネス界では一人勝ちや一強多弱構造などといわれるが、その当の勝者の顔はというと、これが美しくない。商売を続けてればやがて負けが込んでくるのが分かっているから憂鬱なのだ。また、わが世の春のGoogleなどの検索エンジン稼業も、それなりのテクノロジーやIQに支えられてるとはいっても、しょせんはネットインフラの上で他者の集合知に整理の場をあたえてメシの種にしているだけであるからこれも大したものではない。大金を稼いでるようだが、ただそれだけの無産階級虚業である。CEOはその辺にうすうす気づいており、いつも内心ヒヤヒヤしている。勘ぐるに彼らは、事業のバイアウトや撤退をいつも考えてるのではないか。ですからGoogleやFacebookを、間違っても神格化などしてはなりませぬぞ。

 

ビジネスの世界だけではない。たとえば総理大臣職なども、担当が誰であろうと何か悪意の元にこの国を戦争に導いたり、破壊していったりするのでない。あんなものは別の何かの傀儡(かいらい)に過ぎないのであって、摂政は別にいる。それは一義的には所属政党であり、また、その先に鎮座するワシントン様であるだろう。今後のご主人様は、中国のナントカ党に交代するかもしれないが、いづれにせよ民意ではない。

 

そして摂政の本当の本体は、こうした外国でもない。それは自分(自国)だけの損得や勝ち負けにこだわる姿勢なのである。

 

以上みてきたように、われわれ現代人は、みんな何かに操作されてる存在であり、自分の性格とか人生とかにこだわっている限り、その操作の末端に座するだけである。

 

いまの日本の、いや世界のそうした「総奴隷状態」を解消したり打開したりできるのは、真のBlues精神を以って共有の境地に至ることである。つまりそれは、単調な繰り返しの中で、ほかのものに己を仮託することで自己が開花する、戦前のブルース的手法の復権である。それは個人主義やら著作や所有の概念を上回る、骨太の思想になり得る。そこではじめて人は憂鬱や屈折や疲労とホントに向き合える。そこを経過してないと、個性もなにも身に付かない気がするのである。

 

奴隷のなぐさみものが、長年の潜伏期間を経て花開き、次世代の糧になる…痛快じゃないか。

 

魂を交換するCrossroadsは、いつでもそこにある。いまは見えてないだけだ。

 

<了>

 

参考にした記事↓。ロバジョンに対し理系分野からアプローチして、ぼくにはできないような巨大な発見に至っている。どんな発見なのかは読んでのお楽しみ。

hayashimasaki.netえ羅も

 <追記>

日本でブルースといえば憂歌団というバンドである。彼らも俺が俺が、というのがまったくないまま足掛け30年以上やっている。ヒットを出したことは一度もないが歌は誠実、カネはないが充実はいくらでもあるという、世界でもまれなバンドである。これが理想だ。

 

 

「知らんホトケより、しっとる鬼の方がマシじゃげの」(by 菅原文太)…「仁義なき戦い」の名セリフから学ぶ人生訓。

 

無自覚な偽善は、自覚的な偽悪よりタチが悪い。

 

こういう話↓が2ch掲示板に挙がっていて、自分の知り合いにも同じような人がいて身に覚えがあったし考えさせられた。長いけど、全文引用してみる。

 

その神経がわからん!その21

135名無しさん@おーぷん :2016/06/11(土)23:04:49 ID:wP4 ×
高校時代に世話になった先生が、定年退職後にカフェを開いた
もともと人権意識が高くて障害者福祉や動物愛護に関する活動をしていた人でなおかつ芸術に関してもかなりの教養がある
カフェもそういった分野に関わる人たちの憩いの場になればという趣旨のもの
ただお店の構想を見たときに、それ以外の一般人には敷居が高く感じられるだろうなと思われるものだった

いざ開業してみると、やはり一般のお客さんには入りづらい感じになった
おかげで駅近なのに、平日は閑古鳥が鳴いている
レビューサイトにも「居心地が悪い」と書き込まれることがあった

高校OBや現役生はなるべく足を運ぶようにしたけど、平日は皆仕事や学校があるのでどうしても土日にしか行けない
しかもその高校は県外に進学する子が多かったので、次第にOBたちも来なくなった
現役生は試験勉強で忙しいし、先生の教師時代を知らないので、そこまで義理立てする気持ちにもならなかったようで、やはり足が遠のいた

そのうち「お客さんが少ない」「赤字がつらい」と先生がFacebookに投稿するようになった
見かねたOB(飲食経営に詳しい人)が、一見さんでも入りやすいお店作りをアドバイスしたが結局先生は最初の方向性を手放せず、そのOBとも喧嘩別れしてしまった
136名無しさん@おーぷん :2016/06/11(土)23:05:14 ID:wP4 ×
その先生はもともと反自民・反原発のナチュラル志向だったんだがお店の経営がきつくなるのと同時期から、その傾向がどんどん表に出てきた
Facebookの投稿もそういう記事のシェアが増えた(しかも人工地震とか陰謀論とか眉唾物ばかり)

私は遠方の大学に進学し、原子力関係の仕事(非原発)についたんだけどそれも先生は気に入らなかったらしく、たびたび辞めて地元に戻ってくるように言われてた
その後、病気が原因で退職したら大喜びされたので、個人的にはその頃から先生が嫌いになっていたけど、その病気も原子力のせいにされたので、大喧嘩をして縁切りした

それ以降はなんとなく同級生から風の噂を聞くくらいだったのだが結局、そのまま大赤字を抱えて閉店してしまったらしい
先生のFacebookを久しぶりにのぞいてみたら、それも「安倍政権のせい」って書いてあった

教師時代はとてもいい先生で、病気で休みがちだった私をとても熱心にフォローしてくれて評判のいい病院を探して紹介してくれたくらい、いい人だった
どこでどうなったんだろうと思うと、切ないなぁ・・・

なんて思っていたら、つい先日、先生から友人経由でメールが届いた
「今のお仕事(出版関係)は順調ですか。今度手記を書こうと思うので、あなたの会社で出版してもらえない?」とあった
あんだけ大喧嘩したくせに・・・と思ったが、当時の恩を思って久しぶりに会う約束をして原稿を見せてもらったら、自分のカフェ経営を振り返る内容だった
でも自分の失敗は全部「自民党のせい」となっていたのでだめだこりゃとがっくりきた

http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1465140047/ 

 

さて上の引用にあるとおり、人権意識が高く、障害者福祉や動物愛護、慈善事業やボランティア活動などに、張り切って精を出してる「いい人」が確かにいる。そんな人の中にこそ、イマドキはネットでの陰謀説やいわゆるネトウヨ言説などのマユツバ系に絡めとられやすい人がいて、じっさいぼくの周囲にも2~3人いる。

 

いいひとなのに不思議だ…という印象を持つが、それは違うだろうな。自分の中身がなく、他者の正義感にもたれかかって慈善事業にいそしんで来た、そういうタイプの「いいひと」ほど、別軸の価値観にも染まりやすいのだ。上の引用での「先生」の今後は、新興宗教などにハマってケツの毛までむしり取られるパターンではないかと。

 

これは完全に私見だが、自分の内発的善意から発した善行は、相手のニーズを見つめた上で対応したものと違い、えてして前のめりで独りよがりのものに陥る可能性が高い。突き詰めた個は、全体視野を獲得するものであるが、そこまでいってない個は害悪になるのだ。

 

自分の外側にある存在に対して浅い親切を施すことなど、ニセの愛である。ホントの愛とは、そう簡単に親切を与えないことだ。自尊心やニセの親切心から有意なものが生み出された事など人類史上一度もないのであって、本当に役立つものは文学でも音楽でも、自分をカラにするとか限界までダメ出しするとか、自分を木っ端微塵に破壊するとかのパフォーマンスから、つむぎ出されるのである。

 

どんなに性格がよくても、情緒的で生ぬるい対応しかできない人とばかり付き合っていては共に沈没してしまう。それより性格が悪くても正鵠を射た指摘や、辛口の戒めをキメてくれるひとに影響されよう。

 

もっというと、自分がそういう「冷酷さ」を身に着けていこう。無自覚な偽善より、自覚的な偽悪を目指せ。

 

「知らんホトケより、しっとる鬼の方がマシじゃげの」ということだ(「仁義なき戦い 代理戦争」より)(1973年)

<了>

 

つまらん紙でパンパンに膨らんだサイフは醜悪だ ~ケリをつけることの経済学~

仕事をキメきれない日々

 

前にサラリーマンをしていたころ一番イヤだったのは、いつも複数並行の、中長期的な問題や案件に頭が支配されてたことだった。それらの問題は相手の経済状況に由来するものだったり、好き嫌い次元の人間関係の話だったりで、自分の力量では一向にケリがつきそうにない未決ものばかりだった。まぁだからこそ長期化するのであるが、そんなものに日々悩まされる状態が常だったことが、もうとってもイヤだった。はやいとこ「自分の仕事」に取り組まさせてくれ、って気分によくなったものだ。

 

いつも複数の問題に取り囲まれてることなんて、大人なら誰にでもあることなのかもしれないが、それが悩みだった当時は、たとえば販売員やウェイターみたいに、客の要請をその場その場で片付けていくのがメインの職種が、うらやましく見えたものである。

 

仕事もそうだがだいいち生活とは、煎じ詰めれば毎回毎回、何かに対処しケリをつけながら進めていく所作であって、人生はその繰り返しだけである。そうした単調さの中に、何かしらの創意工夫や新しい発想の萌芽を育んでいくのが、人の前進や充実のはずである。その繰り返しの過程でひっついてきた余計なゴミやつまらんダストを払い落とすのに躍起になってるうちに、そのことが自己目的化してしまう倒錯。それを徒労と呼ぶノダ。

 

しかしむしろ世の中はずーっと、その徒労の方ばかりが主人公になって人を支配しているのではないかな。冒頭に書いたサラリーマン時代のぼくのように。それはまるで洗濯機の糸くずキャッチャーを掃除して、洗濯槽そのものをキレイにしたつもりになってるみたいな意味のなさだ。

 

これからは散財する時代!

 

たとえばお金なんかもそうであろう。前にも書いたがお金は資本を計るモノサシであって、本来はそれ以上でも以下でもない、単なる記号である。だから良き人の、お金に対する正当な態度は、いつもその場その場でケリをつけて決着させ、さっさと銭と決別することである。排便みたいなもんだ。だからその意味で「金は天下のまわりもの」なのである。

 

いつもその場で現金ニコニコ払い(死語かw)。支払いは原則即金である。商売慣習上、売り掛けなどしても、せいぜい2ヶ月程度で「ケリ」をつけてしまうことだ。事業拡大で借金など、当たり前だがしないに越したことはない。麻痺すると借金が自分の金に思えてしまう。

 

リボルビング払い、カード決済、(先付け)小切手、手形、電子マネー、仮想通貨、オサイフケータイなどなど、マクロ経済側が用意するものは、全部先送りの蜃気楼だ。それは貨幣の抽象性に依存した甘えであり、誰かに食い物にされる最初の1歩になる。確実に。

 

支払う方の話ばかりでない。たとえば消費にくらべて推奨される行為に貯金があるが、貯蓄で肯定できるのは自然と、いつのまにか「ある」「たまってる」「ストックされてる」って状態だけであって、その単純さを超えて金利や利殖、利回りや配当、投資や信託などに固執し始めたら、銭への隷属化、倒錯へののめり込みのはじまりである。

 

キビキビと決着してニコニコ決済

 

あの、だから「財布を買ったら入れる金がなくなった」という冗談に笑える余裕、これが好ましいんである。それは日常にケリをつけていくカラッとしたあかるい態度に、金にまつわるギスギスさを蹴散らす骨太さを認めるからだ。

 

みにくい財布に限って、いつか使うつもりでその実、いつの間にか期限切れになってるクーポン券やサービス券、過去のレシートでパンパンになってるものだ。そこにあるのは単に「留保の態度」だけである。つまり、ケリの付いてない徒労だけだ。こうなるとサイフってのは人にとって、最初のゴミためとすらいえるかもしれないな。まちがっても財布に対し金運上昇のアイテムとか、ワンランク上の上質さを演出する小物…みたいな物神化など、しないようにね。

 

途中で付いたゴミはデフラグとかスキャンディスクで落として身軽になってないと、肝心の次へ前進の妨げになるよ。とにかくこれからはキビキビと決着してニコニコ決済、マクロ経済など知らん!ってのがいい態度だね。お金に対して冷淡でいた方がかえって自然と「貯まる」ような気もするしね。

 

<了>

 

 

現代の「ワクワク、ドキドキ」が踏みつけにしてるもの

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*梅酒撮ろうとしたら、ウメボシしか無かった笑

 

 

デトックスウォーター?水素水?なにかの間違いだろ?梅酒でも飲んどけ。

 

生きてるだけで空間を占有し、空気を収奪しているのが生命である。とりわけいまの地球で食物連鎖の最上位に君臨する人類は、最も高次に環境を消費する種である。

 

人の場合、そのように単に生きてる状態だけでなく、「ワクワク、ドキドキ」するようないわゆる娯楽の成立まで追及しはじめると、環境の収奪量やエネルギーの消費率はすさまじいまでに飛躍的に増大する。そしてその増加量は、時代を下るごとにひどくなる。

 

例:スポーツは重力への抵抗というワクドキ感の実践だが、着地したときに草やアリを踏みつけている。その踏み付け度合いや破壊具合は、普通に歩いてるときの比ではない。そしてスパイク並びにシューズの鋭利な進化や、マラソンブームでのランナー人口の増加が、地面へのダメージを年々大きくする。

 

しかしそうであるからといってエコロジー活動などに注力していくことは、これまた別の新たな収奪源への加担なのである。「風の谷のナウシカ」で指摘された、人と環境の関わりにおける両義の刃性が、この構図である。

 

こうした連鎖の構図に、せめて思考だけでも自覚的でありたい。わたしの存在自体が地球にとって原罪であったとしても、不遜にまみれた中にある充実の一端にだけは、できることなら染まらせてほしい。

 

いま、街角でかんたんに手に入る「ワクワク、ドキドキ」、その成立基盤を疑ってみること。それができるひとは、いっけんポジティヴに見える余暇活動が、人の本当の「充実」にとっては妨げになりうることに気づかれよう。

 

繁華街ではデトックスウォーターとか水素水などというものを、さかんに売り出していた。あの辺は紅茶キノコ(!)みたいな単なるはやりものであり、個別の真偽は知らんが商売スタイルとしてもともかく気に入らないのだ。ワクワクしながら自分だけ健康になるって思想が裏に隠されてるのが姑息なのだ。そんなのなにかの間違いだろ?みんなで共に生き生きってのが、本当に目指すべき境遇じゃないのか。

 

なにか飲みたかったら梅酒でも飲んで寝てろということだ。その方が環境にも人類にもやさしいぞ。だいたい1975年ころの紅茶キノコブームで、その後長寿をまっとうできたヤツなぞひとりもおらんのだ。

 

自分の充実はいちばん最後にめぐってくる、それがものごとの正当な順番だ。期待しないうちに不意に最後に訪れる、そうした「何か」こそがホンモノの充実なのであって、わくわくドキドキなんざそのはるか手前の、わが身かわいさの目くらましである。

 

<了>