お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



AIに凌駕されちまうことへの待望論。

70年代後期におけるレコード時代の話だが、当時早弾きギタリスト合戦みたいなことが音楽シーンでは興っていた。そのころはクロスオーバーブーム(フュージョンの前身ジャンル)やへヴィメタルムーブメント(これは80年代だが)などと称されており、それは結構長年続いた流行であった。

 

要するにテクニックの誇示なのだけど、その流行の当時ですらやはり「こんなの形骸化したテク至上主義だ」って批判があって、「テープの早回しすれば誰でも早弾きじゃん」なんて主張する人もいた。
それはその通りであって、現に今なら音楽制作ソフトでスーパーギタリストは実現できてしまう。
だからテクニック重視の音楽傾向はいまでは廃れた。ライブというもうひとつの場はあるにせよとにかく廃れてよかったもののひとつだ。

 

形骸化。そう、演奏や楽器は音楽の手段なのであって、音楽の大命題は人をして普遍的なるものに気づかせることなのだから、演奏テクニックなどが先に立つのは単なる曲芸師やサーカスの類とおんなじである。そこに本物のパフォーマンスはない。昔の、演奏技術といった「手段」をフィーチャーした錯誤の中で、たまさかいいメロディーのいわゆる名曲があっても、そこにさっき述べた大命題のかけらでも感じられなければ、そいつは単なる鑑賞音楽である。

 

で、話は飛躍するが、音楽におけるその早弾きブーム、テク至上主義が、いまの時代のAI(人工知能)に相当するのではないかな。

 

ちまたでは人の仕事(というか作業)がAIに取って替わられるのが脅威とされているが、十把ひとからげの一般常識の中にあなたがそのままで押し込まれてるようでは、あなたはヒトでありながらAIに伍たる存在でしかない。むしろAIの方がしっかりした「人格」を持ちそうな気さえする。

 

外化され対象化され、幸か不幸か具現された人工的なるものの実装。それへの無邪気な傾倒は、人間性の根源への問いかけを不可避に含む。言い換えれば、進歩でありながら自分が何者であるかの先祖帰りである。
そこに目を据え、常に対峙していないと、史上初の原子爆弾の開発過程とまったく変わりない光景が繰り返されることになる。

 

「overloaded」もしくは「over-spec」という概念。あらかじめ決められた器から横溢してしまうほどの有能さ。それがAIである。


OSの書き換えが必要な時期になっている。人間がいまのレベルのままなら、超高度に自前の進化を果たしたAIになら、支配されちまうのも悪くない。

 

<了>

 

 

自分の声が気色ワルイのはなぜなのか。

f:id:fotobiginesu:20160519124207j:plain

 

ほんとうの自分を追い求めて

 

人は自分の声がわからない。自分の耳に響くそれは、自分の頭蓋骨というフィルターを通して部分的に響いてるものなので、外部に響く声とは違っている。
録音された自分の声が嫌い、ゾクッとする、恥ずかしいオゾマシイと思う人は多い。ぼくもその一人だし、そこまでいかなくても、「自分の声色」に違和感を持つ人はかなり多いと思われる。

 

自分で分からないものといえば笑顔もそうだ。ひとは自分の笑顔を客観視することはできない。
カガミを見て笑ってもそれは全部作り笑いになってしまう。
笑顔に限らず、泣きでも怒りでも、表情とはすべてそういったものだろう。
そして声色や表情ほど、瞬時にそのひとの内面を表すものはないのである。

 

声も表情も、人側の安易な作為や操作などせせら笑うかのように、自分の意に沿わない。自声嫌いや表情の硬さを克服できたという人は、錯覚か、思い込みか、慣れたかのいづれかに過ぎない。
自然な感情の発露というのは、吹き出てしまう、とか、にじみでてしまうものだ。
それらは自覚できないし、自覚できたと思ったとたんに消えてなくなってしまう、砂漠のオアシスのようなものだ。

 

このことからうっすら感じ取れるのは、ほんとうの自分など、たぶんどこにもいないのではないか、ってこと。そして変化し続ける自我なら、かろうじて存するらしいってことも。
人が知覚できるサイズの「自分」ってのは、おそらくこの変化していく領域にしかいないだろう。
個性なんてその程度のものである。

 


顔も声も身長も気に入らない。スタイルが選べる人生ならいいのに。

 

精神と肉体は、つながってはいるが別ものだ。自分の中身(=精神or主観)は無形なのに、肉体という有現のものに閉じ込められている。無形の内実が、有限なものや死ねば腐ってしまうもの、つまり客体に封印されてる。なぜこうした構造なのか?

 

それはたぶん人の本当の正体は、たったひとつしかない無垢であり、それは外郭を要求するからだ。
無垢は人格など超越しており、いいも悪いもなく、人的評価や科学的観測の埒外にある。

評価は出来ないが、むりやり形容するならば、無垢とは、反省と無縁である。
無垢は、無口である。そして無垢はちょっと呪われていて、破壊的犯罪的残酷なときがある。霊魂が直感的に怖いのは、それが無垢の抽出だからなのかもしれない。
無垢という言葉には100%ピュアな純真イメージがあるが、それはちょっと違うのだ。再生を前提とした破滅が、邪悪さが、織り込まれ済みのようなところがある。
とにかくこの惑星の、すべての生きとし生けるものに、その無垢は継承され息づいている。

 

このかけがえのない無垢の、無数の分岐や結晶現象が、ぼくら人間(の魂)であり、そこらへんの犬や猫やカラスにも、同じようなものが宿ってる。なぜなら動物の瞳の奥には、永遠が潜んでいると感じられるからだ。

 

そんななか、おそらく人間のみは、自分の中にある無垢さを確認し、共鳴し合い、押し広げてゆくことが、実はできる。たとえばこの文章がそうであり、ランボーの詩などもそうである。

 

そしてそういった能力を備えた人間に、同時に課せられたのは、客体(=肉体)という一定の制限、甲殻、拘束具である。その制限がないと、無垢の持つ、よこしまな要素が開放されすぎて生存が保てない。人はそういう仕組みなのではないか。

 

したがってこれは、分かりやすいイメージでいえばアニメのエヴァンゲリオン筐体なのである。
エヴァも、無垢の共鳴、拡大、そして再生のための破壊がテーマだったのだ。

 

さてここで、声や表情という意思疎通の際に決定的に大事なものが、自分には分からなくさせられている問題に戻ると、それは「おまえの個人性は、おまえのものじゃないんだぞ」という、無垢からのナゾかけなのではないのだろうか。
あなたは、わたしである。わたしは、わたし以外の誰でもある。
だからあなたの、自覚できないその声色やその表情で、瞬時に、お互いがお互いを「分かる」のである。

 


しらじらしいものにかかわり合ってるヒマはない

 

さっきTwitterを見てたら「自分の気持ちに正直に生きる。それがいい人生を送る秘訣」式の、チョーシいいだけのペラッペラなtweetがあった。
若者を中心にbotでずいぶん拡散されてるツイートのようだが、それは空虚なだけで何も語っていない。
「気持ちに(というか気分に)正直に」と呼称する時点で、気分や正直の影を追ってるだけになる。

 

本当に、本心から、気持ちに正直になれたことが、かつてどのくらいあったか?というか、正直って何だ?

 

無垢の持つ犯罪性は、こういう影を追尾させるような目くらまし的なところに、さっと何気なく出てくるのだ。

 

「気持ち」にシラケよ、「個性」を見限れ。自分の内なるマガマガしさを見つめよ。


「いい人生」とは、ビキッとライブに「分かる」その瞬間を、いかに長く、エレキギターのサステインのように伸ばせるか、そして分かりあうお互いが、自分の声のように頭蓋を通じて響き合えるか、それだけだ。

 

<了>

 

 

ぼくには経済が分からない。

f:id:fotobiginesu:20160517144635j:plain

日本の貨幣/紙幣。 画像引用:http://01.gatag.net/

 

ぼくには経済が分からない

当方、資本主義、キャピタリズムといわれる社会に生を受けたが、小銭以上の「資本」を有したことはなく、また、株式会社だらけの世に暮らし何十年となるが、株の買い方も、どこで買うのかも知らないし、株式を購入する保有する売却益を得るという行為全体が、まるでピンと来ない。

 

また例えばアパートの大家になって家賃収入で食っていくとか、FX差益で儲けるなんてのも、どうにも信じられない処世術である。これは自慢なのだが、今年47歳の筆者が今まで購入したいちばん高価なもの、それは50万円の中古軽自動車であった。


かようなボンクラが戯言のように思うこと。それは資本や株とは、投票権のように万人が有しており、任意に、自由闊達に行使できるのがそもそものありよう、役割なのではないのか、ということ。であるならば、投機だとか損得だとかマネーゲームとか為替相場とか株式市場とかは、すべて副次的な意味しかなく、その程度の位置で、いじましげにおとなしくしておるべきだ。


そしてそのよく分からないものどもが存立してる基盤が貨幣制度であって、これがまたおなじ穴のムジナときたもんだ。


金銭(貨幣、紙幣)は、額が大きくなれば(いや始めの単位である1円1銭からそうなのであるが)、記号、幻、ツチノコ、蜃気楼のたぐい以外の何者でもない。得体の知れぬものである。


たとえば日本の税収は一般会計税収で年に56~57兆円だそうだが、理論上額面上計算上そうなってるってだけで、そいつを現ナマで明日までに全額用意しろといってもできない。
日本中の金融機関が保管してるゼニと、市中に流通してるカネを全部あわせても、いくらになるか知らんが間違いなく税収総額を大幅に下回っているから、1年待っても全額用意できないに違いない。
日銀の黒田総裁であっても、安倍総理大臣であっても、純物理的に不可能だ。
かといって総額に見合うだけの紙幣を印刷し、市中に解放すれば、経済学上はインフレになる(らしい)。まぁ、そうする必要もないのだが。


このほどさようにカネとは、ありもしないのにあると自己暗示をかけ、みんなそれを疑いもしない状態が基盤なのであって、これを俗にハダカの王様状態という。クレジットカードなどはそのマボロシにカードという別の種類の擬似マボロシをかけあわせた2乗存在であり、したがってその空疎な間接性こそがショッピングにまつわるあらゆる思考停滞、麻痺、先送り等々の大元になるのである。スキミングなどといったカード犯罪(クローンカードの複製生成技術)が世に横行するのも、なるほどしごく当然である。クレカのような「象徴」によって現代に提示される分かりやすい利便性こそが、もっとも警戒を要する魔物なのだ。


硬貨にせよ紙幣にせよ、千円札なら千円札の交換価値があると万人が認定して初めて効力が生じるし、しかもその認定は希少性が必要条件であり、時と状況のバランスが崩れれば、札束も価値としては紙くず同然となりうる(実際、第一次大戦後のドイツでは、インフレーションによって紙幣が紙くずとなった)


やはり金銭は、その存立基盤がたいへん怪しいマユツバものなのである。身近な経済指標とされている前年比なども、もっともらしいようだがよく考えるとそんなもので成長を計量できるとみなすのは、魔物のようなワケの分からなさがある。


「カネは天下のまわりもの」という。そのとおりカネはマボロシだから私有概念のソトにある。
個人が流通させることも、貯蓄することも(本当は)できない。できたとしてもそう見えるだけでいつ消去されるか分からない。
そして相続に関しては、いま国家がそいつを吸い取ってしまおうと、虎視眈々と狙っている。
したがって金銭について個人ができることといったら、いまここで散財し続けることだけだ。それか有価証券や金(きん)のような、別の概念に変えちまうか、だ。


膨大な借金で日本は破綻寸前などとずーっと言われてるし、世界では現にギリシャ危機などがあったが、いづれも実体の感じられない机上の計算みたいな話で、まぼろし話と大差ない。日銀と国債の関係など、ヘビが自分の尾を食べて生き延びるようなもので、大いなるパラドックスである。


だいいち金銭とは本来、資本や株式の量を計って蓄積や流通、取引の潤滑さに貢献するだけの単位であって、つまり手段ではなかったか。
その、単位や手段に過ぎぬものが、人々の生活を覆いつくして、人がそいつに支配させられ、共食いまでさせられているのは、大いなる本末転倒、倒錯錯誤である。


東京都知事なんか、猪瀬も舛添も、それ以前の経歴がエエ格好しぃ奴であればあるほど、みんなカネにまつわるぶざまさを露呈してきたのは、その象徴である。語る価値もないあのアホらしさには、脱力するしかない。


借金の返済というカラクリも、ひどいまやかし制度である。市中にあふれる銀行、金融業、クレジットカードに金利という魔物。カネを調達せねばならぬ側は、利息分として余計なカネを用意する必要があり、貸し方がその金を回収する時に得る利潤が、これまたゼニであるというこの自家撞着、自己中毒。しかもその連鎖。
カネが餌となり「信用」とかいうあいまいな未来を担保に次のカネを生むという、このありえない現象をのさばらしてるのはいったいどこのどいつだ?
銀行を称して虚業というのもそのとおりで、まったく世の中は悪い冗談だらけである。


こうした冗談で今日も日が暮れ、明日もそのまた明日も同じ光景が繰り広げられる。
貨幣の本来の目的や役割を忘却し、枝葉末節に猪突猛進するタガの外れた所業を経済活動というのなら、こんなんで人間は、いったいどこに向かうというのだろうか。

 

貨幣制度などハナっから何かの間違いである。カネに対しては、できるだけスッとぼけてるしかないな。

 

<了>

 

「地に足を着け、自分の生をいきる」とは、どういうことか。

f:id:fotobiginesu:20160516122044p:plain

地球の構造 1:内核、2:外核、3:下部マントル、4:上部マントル、5:地殻、6:地表 *wiki「地球」項目からの引用

 

 

地球の構造は人の内面にそっくりだ

よくある人生訓に「地に足を着けよ」というのがある。あっちにフラフラこっちにヒラヒラと、ありもしないものに浮気をせず、自分の足下を固め、実直にやっていけとの戒めである。実に、正しい教えだ。


ということで自分の足元の地面を見ると、これは単なる土地である。その範囲を広げると町、市、県、国となり、国土となる。

そこまで大きく見取ったうえで見方を変えるとそれは、海上から飛び出てる陸地部分(島や大陸)を指している。


陸地。人にとってはこれが諸活動の基本、土台であるが、地球にとってみればそれはホンの表層にすぎない。
その表層にへばりついてうごめく陸上高等動物が、自分の拠って立つ土地を「母なる大地」だとか「聖地」などと唯一絶対視したり、境界線を勝手に区切ってみたり、他の領土を分捕ってみたりして、国や国民と名づけて違う言語をしゃべり、社会をつくっては毎日なにかと忙しくしている。



さてここでお立ち会い。人はみんな地球そのものであると仮定しましょう。惑星構造としての地球と、ホモサピエンスの内面は同じです。
さすればこの表層上の陸地は、その人の外見であります。その下の地殻あたりは、性格、人柄、主観や個人性といった、いわゆる内面における上澄み部分に相当しましょう。
そして地球の母盤たるマントルや核は、その人の魂領域であります。


海面から飛び出てる地上部分しか見ず、せいぜい陸と海しか見てないと、その底に海底があり、海峡があり、さらにその下には地殻やマントルがあることに気づきにくい。
人も同じで、外見はもちろんのこと、相手を性格やひととなりだけで観察し判断することは、表層の部分しか見てないことと同じだ。
たとえ深層心理に至るまで、相手に対し視野を広げて見たつもりでも、地球の観察になぞらえれば、海と土地との境界線が、ぼんやり見えてくる程度にすぎない。


大事なのは自分の人生だと皆はいう。しかし健康であれば人生の諸問題など、大部分が「それ」をやるかやらないか程度の、実務レベルの話である。

要するに本質は、そこにないのである。


本当にたいせつなことは、表層の下にある地殻、さらにその直下にあるマントルの存在を感じることである。
地殻は、すべての島、大陸を、深海よりもさらにボトムの部分でつないでいる。
つまり、人間は全体でひと塊の、普遍なものの部分存在なのである(そういえば「塊」と「魂」って似た字だね)違う言語、違う土地、違う習慣で暮らす異民族同士であっても、まったく同等に「部分」なのだ。
そして生で磨きをかけてゆくのは、その普遍なるもののコア領域である。


(磨きをかけるためのヒント…他人が聞く自分の声と、自分に響く自分の声が違うのはなぜなのか?を考えてみる、など)


よく「人はひとりひとりみな違う」などといわれるが、その言葉は「陸地」部分の差だけを指してるのなら、安直かつ大きなお世話である。根元はこのように「ひとは魂レベルでみな同一」なのである。


自由とか平等とか民主主義といったイデオロギーは、全部この思想を立脚点に出直さなければならない。


またもうひとつ、地球と人間が同根であるなと思うのは、変化に関する方向性が同じだから、というのもある。
ご存知のとおり地球は毎秒始動鼓動してる。大地は一瞬たりとて同じ状態ではない。
地球は何万年という単位で見れば、大陸が移動や上下をするが、それも毎日のホンのわずかづつ始動しているものの蓄積だ。その集積が大陸移動と、後年研究家が名づけた(だけの)現象であって、この一連の変化も、人間の内面に同じく結晶している。

 

地球に対するものとして、人間に限定して話を述べてきたけれど、おそらく地球上のすべての動植物も同じことだろうという気がする。


魂とは、真理だ。そして真理とは、パーフェクトでビューティフルな包括存在であることだ。

それは全部円環で球形の形態をとるに違いない。どの角度からどうみても、同じでなければならないから。


地球学は生物学と等価であり、それは万人の生命を、立体的に照射する役に立つものでなくては。

真理にしがみつけ。その一番末席に人生の充足が用意されているが、それはオマケみたいなものだ。


<了>